壷中の天
<1>
「あーあ…暇だよな、かごめも『てすと』とかでまだ帰れねえとか言うしよ。
一週間も無駄足踏むなんて許せねえぜ。」
犬夜叉がぶつぶつ呟きながら上っている石段は、かごめの家の神社、日暮神社のもの。これを上ると、この現代と戦国の世を繋いでいる唯一の場所、骨喰いの井戸がある。
「何かおもしれえ事ねえかな…」
大きく跳躍して残る階段を一気に上りきれば、井戸のある祠の扉が薄く開いていた。
「なんだ…?」
心なしかその扉から銀色の仄かな光が漏れている様な気がする。わくわくしながらも一種危機感を覚えて犬夜叉はそちらに近付いた。
特に嫌な感じは…しねえよな。
更に近付いて、覚えのある気配を鼻が察知する。
…この匂い…殺生丸か!?
細く開いた木戸を覗き込んでみると、果たしてそこにあったのはじっと井戸の底を見つめつつそのへりに腰掛ける兄の姿。銀色の淡い光は、お堂の光取りから入った光がその髪に反射してのものであった。
Illustrated by Byakuya Eyuki Thanks so much...!!
「…なに、やってんだよ、こんなとこで。」
ぎいっと扉を開いてそう問い掛ければ兄がゆっくりと此方を振り返る。
「ああ、お前か。」
素っ気無い、しかし何処かぼんやりとした兄の声に、犬夜叉の調子が少し狂う。
「どうしたんだよ。何かおかしいぜ、お前、覇気もねえし。大体いつから此処に居たんだよ、何でこっちの世界に来れたんだ。」
浮かんだ疑問を一気に投げ付ける犬夜叉に、殺生丸は言葉少なに返事を返す。
「…呼ばれた。」
「はあ??呼ばれたって、誰にだよ。」
「…分からぬ。」
「お前なあ…呼ばれたら誰にでも付いて行っちまうのかよ……」
一気に脱力する弟に、殺生丸が少し不機嫌そうに眉を寄せた。
「誰にでもついて行く訳では無い。…それに、害意を持つ相手ならば倒せば良い事。」
そう跳ね返して来るのを聞いて、犬夜叉は思わず頭を抱える。
「…あのなあ、まあお前にとってはそれが正論かも知れねえけどな。この時代でそれはまずいんだよ。そんな物騒な恰好して歩くだけでも捕まっちまうんだ。」
「そうか。」
そう頷くものの、兄の表情に変化は無い。
「…帰らねえのか、元の世界に?」
尋ねて来る犬夜叉と、暗い井戸の其処に殺生丸は交互に視線を投げ掛ける。
「…道が、繋がらぬ。」
ぽつりと返す兄の言葉の意味が分からずに、犬夜叉はぽかんとした顔で殺生丸を見つめた。
「わからぬか。…ほら、飛び降りても再び元の世界には戻れぬという事だ。」
その弟を納得させるかの様に一度井戸の中へふわりと足を下ろすと、やはり其処は固い地面のままで時空を越えた道は開かない。
「…マジかよ。」
呟いた犬夜叉が不意に兄の首に腕を回して自分も井戸の中に身を投げる。
「…何の真似だ。」
一瞬後には引き剥がされて不満そうな顔をしたものの、これで犬夜叉に対しても殺生丸に対しても井戸が何の反応も示さないという事が明らかになった。
「しゃあねえ、かごめのとこに行くか。…目立たねえようについて来いよ。」
ひょい、と井戸から飛び出る犬夜叉に続いて殺生丸がふわりと井戸を抜け出す。この兄が大人しく自分の後について来るだろうか、と一抹の不安を覚える犬夜叉だったが、兄はさして抵抗する事も無くゆっくりと足を運んだ。
道行く人が二人の兄弟を見て、正確には殺生丸が通り過ぎた途端にはっとそちらを振り返る。
出来るだけ人が通らなそうな道を選んだつもりではあったが、かごめの居る場所とは学校のことなので、目的地に近付けば近付くほど誰にも会わずに進む事は不可能だった。
「綺麗な人ねえ…髪の毛が見慣れない色だけど…外人さんなのかしら?」
「そうねえ、染めてる、って雰囲気にも見えないし…あ、もしかして役者さんかもよ。」
「向こうの大学、もうすぐ文化祭でしょ、その練習で衣装を着てるのかも。」
「う〜ん、でもここからだとちょっと遠いわよ?」
行き交う近所のおばさん達がそんな風に噂するのを聞いて、犬夜叉は内心『助かった』、と安堵の息をつく。
「別に何も起こらぬではないか。」
殺生丸が小さく呟いた言葉を耳にして、それはすぐに『運が良かったんだよ…』という溜め息に変わる事になるのだが。
正門から入るわけには行かないので、かごめの学校に行く際にはいつもそうしている様に塀を越える事にする。そっと辺りを覗って、塀に爪を掛けた犬夜叉に、殺生丸は又もや不思議そうな顔をした。
「…何をしている?」
見りゃ分かるだろ、よじ登るんだよ、と言い掛けてやめる。此処で兄に機嫌を損ねられたら面倒な事になるからだ。
「あのな、正面から入るわけには行かねえんだよ。だから人に見つからなそうな場所から…」
その言葉が終わるか終わらないかという内に犬夜叉の胴の辺りは兄の毛皮に絡め取られて。気が付いた時にはかごめの学校の上空で下を見下ろしていた。
「なっ…」
目を瞠る弟に、しかし殺生丸の掛けた言葉は酷く冷静なもので。
「お前の連れのいる場所は何処だ?」
思わず脱力してバランスを崩しそうになった犬夜叉を、殺生丸の毛皮がふわりと支える。
以前は同じものを自分を攻撃する為に使っていたのに、今こうして支えてくれる事を何だか嬉しく感じながら、犬夜叉は同時に思考を現実に戻した。
「あ…あのなあ、空飛んでるとことかも、見られたらやばいんだよ。かごめがいるのはあの校舎の中の…どっかの教室だ。でも今は行けねえ、もし行ったら確実に『お座りっ!!』とやられるからな。だから俺はいつもあの建物の屋上で待ってるけどな。」
殺生丸は無言のまま高度を下げ、弟の言葉通り屋上に着地した。
「…」
柵にふわりともたれて瞳を閉じ、ただ時間の過ぎるのを待つ兄に少々拍子抜けしながらも、犬夜叉も膝を抱えてかごめが下校するのを待つ。
午後の陽射しが気持ち良くはあるものの、する事も無く時間を潰すというのは中々大変で、犬夜叉の方は屋上を行ったり来たりしながら何度も溜め息をついた。
そういえばさっきもつまらねえな、と思って井戸の周りをうろついてたら殺生丸が居たんだっけ。誰かに呼ばれたとか言ってたよな…そうすると、もしかしなくても呼んだのって俺なのか?
ちらりと兄の方を見やれば、殺生丸は相変わらずじっと瞳を閉じたまま。
俺が呼んだのに応えて、わざわざ井戸をくぐってくれたっていうのかよ…?
犬夜叉がそんな思考にはまり込みそうになった時、終業を告げる鐘の音が辺りに響いた。
「多分これで”じゅぎょう”も終わりだろ。…かごめのとこにでも、行ってみるか?」
犬夜叉がかけた声に、殺生丸はゆっくりと目を開けて。しかし立ち上げる事はしなかった。
「人に見られてはまずいのだろう?…ならば私は此処に居る。」
此処に居るって…こっちの世界にいる間ずっと此処に居るつもりか?確かに此処は人目も無いかも知れねえが…夜は冷えるし、いくら完全な妖怪だといってもなあ…。
そんな犬夜叉の思考を読み取ったかのように殺生丸がふっと口許に笑みを浮かべる。
「話が付いたら呼べ。」
そんな短い言葉に送られて、犬夜叉は屋上から校庭に生えている楠の木に飛び移り、所々足場を探して地上に降りてかごめの匂いを探した。
「犬夜叉っ、又学校まで来て…!!」
予測通り即刻『お座りっ』と唱えた後、人気の無い場所まで犬夜叉を引きずって行き、続けて小言を言い始めたかごめに犬夜叉は不満そうに鼻を鳴らす。
「だから、今回は用があって来たんだよ!!」
「あたしが学校から帰ってくるまでくらい、待てるでしょ!?」
「そんな場合じゃねえんだよ。殺生丸が来てるんだから。」
続いていた言い争いがそこでぴたりと静止して。
「ちょっと…今あんた何て言った…?」
完全に表情が固まったかごめがそう問い返すのには随分と間があった。
「だから。殺生丸が、どういうわけだか知らねえけどこっちの世界に来ちまったんだよ。…あのいつもの恰好でな。」
犬夜叉の兄・殺生丸のいつもの恰好…和服の上に妖鎧をまとい、更に見事な毛皮がその肩を飾り…腰には刀が二振り…更にあの時犬夜叉が切り落としてしまったせいで彼には左腕が無い。
(…あああああ、よりによって何てやばい人物が来ちゃったの…?戦国時代のノリで犬夜叉とバトルでも始められた日にはもう警察沙汰だし、そうでなくても物凄く目立つわよね…あれを現代人に変装させるのなんて並大抵じゃないわよ…!?ああ、今までして来た欠席の言い訳も全て水の泡か…)
頭を抱えてしまったかごめを見ながら、犬夜叉は言葉を続ける。
「そんでもって今は井戸が開かねえ。戻れるかと思って飛び込んでみたけどな。」
何ですって、と益々頭を抱えたかごめが漸く顔を上げて犬夜叉に向き直った。
「それで?殺生丸は今何処に居るの?…まさかその辺をふらついてるんじゃ…」
又もやぎょっとした顔つきになったかごめに、『あいつなら屋上に居るよ』と告げる犬夜叉。
「ま、まあ、いきなり一緒に連れて来たり戦い始めたりしなかったのはあんたにしては気が利いてたわ、犬夜叉。」
『俺にしてはってのはどういう意味でい』、と叫ぶ犬夜叉を尻目に、かごめは今後の対策に頭を悩ませる。
(人に見つかっても困るから一応うちに泊める事になるんだろうけど…殺生丸が言う通りにしてくれるかどうかも分からないし、ああ、問題は山積みだわ。)
「じゃあ、あいつ呼んでいいか?」
取り敢えずは落ち着いたらしい犬夜叉が不意にそう尋ねてきて、かごめは又もや驚いた。
「…殺生丸、あんたに呼ばれるのを大人しく待ってるの?」
尤もといえば尤もなかごめの問い。
「ああ。…ついでに言えば、呼ばれるまで屋上で待ってる、って先に言い出したのもあいつだぜ。あっちの世界に居る時よりも…ちょっと雰囲気が柔らかいよな。」
犬夜叉とかごめの二人が屋上に着いた時、殺生丸は柵に軽くよりかかって周囲を眺めている所で。風に美しく靡くその銀の髪だけが戦国時代の彼と変わらずそこにあった。
「こちらの世界は…随分とのん気に時間が流れているな。」
やって来た犬夜叉達の気配に気付いた殺生丸が、ぽつりとそんな言葉をもらす。今まさにテストに追われているかごめにとっては『のん気』等とんでもない話だったが、確かに学校の屋上から眺めていただけならばそう見えるだろう。
「うーん…まあ、妖怪は襲って来ないかもね…」
困ったような顔をしたかごめが犬夜叉に視線を移し、『こいつに殺生丸との取り成しを頼んでも無駄か…』と肩をすくめた。
「ええと、あのね、殺生丸。あんたこっちに居る間、ずっと野宿じゃ困るでしょ?誰かに見られても厄介だし、うちに泊まってくれない?」
と、振り返った殺生丸が僅かに片眉を上げ、目を見開く。
「別に・・・野で夜を越すくらいいつもの事だが…」
ぽつりと呟かれた兄の声に、それまで黙っていた犬夜叉が割って入った。
「だあっ…駄目だ駄目だ、いくら『のん気な』世界でもな、お前みたいのが一人で夜中にふらついてたら迷わされる奴は絶対居るだろ!!そんでお前は間違いなく自分に無礼を働いた奴を殺すよな。…そうしたら俺達の存在がこっちの世界の奴に知れちまうんだよ!!」
迷わされる、の下りで殺生丸は心底不思議そうな顔をしたが、自分達戦国時代の妖怪の存在をこちらの世界の人間に知られてはならぬ、という犬夜叉に無言のまま肯く。
「ならば…邪魔をする事にしよう。」
かごめの家への移動は、犬夜叉とかごめが先に正規の道を通って帰り、殺生丸が後から匂いを頼りに家を見つける、という手順で行われた。明らかに一般とはかけ離れた格好をしている殺生丸を連れて道端を歩く勇気は、やっぱりかごめには無かったのである。
「まあまあ、良く来たわね、貴方がかごめの言っていた犬夜叉君のお兄さんなの?」
庭先に降り立った殺生丸を迎えたのは丁度廊下に出て来た中年の女性。明るい感じのきびきびとした声が彼女の快活さを顕著にしている。
「さあさ、入ってちょうだい、もうみんな来てるわよ?」
一方的にしゃべる事をさして苦とせずにかごめの母が殺生丸を誘った。
「…いや、私は此処で構わぬ。騒がしいのは好かぬし…外気は別に苦でもない。」
低くそんな事を呟いた殺生丸に、一瞬彼女は目を丸くする。
「えっ…!?で、でもいくらうちの敷地内だって言っても、貴方みたいに綺麗な子が戸外で夜を過ごすなんて危ないわ。さあさ、遠慮しないで中に入って。みんなで騒ぐのもたまにはいいものよ、ほらっ!!」
そうして何気無く殺生丸の左の袖を掴んでぐいと引っ張った瞬間、そこにある筈の腕の感触が無い事に気付いて。
「貴方…」
はっとした様な表情になったかごめの母と殺生丸との間に気まずい沈黙が流れた。
「ママ、何してるの?…犬の兄ちゃんがお風呂を貸して欲しいって…」
タイミング良く丁度掛けられた草太の声で、その気まずさは一まず消えたのだが。
「あ、ああ…いいわよ、お入りなさいな。」
普段の調子でそう答えるかごめの母の声と、縁側から草太が顔を覗かせるのが同時だ。
「うわあ、すごい毛皮だねー!!…この人が犬の兄ちゃんの兄ちゃんなの、ママ?」
無邪気な声を上げる草太の目は幼子ならではの煌きを湛えている。たたっと庭先へ駆け下りて来た彼は、殺生丸の肩をふわりと飾る毛皮にばふりと抱きついた。
「こ、こら、草太、駄目よ勝手に。」
半分は本気で殺生丸の毛皮を心配して、そして残りの半分は彼が隻腕であるという事実に草太が衝撃を受けるのではないかと懸念して、かごめの母が慌てて叱る。
「ええー、でもこれ、凄く気持ちいいよ?」
毛皮を手放す事なくそんな事を呟く草太に母親が脱力しかけた時。
「ちょっと草太?遅い…って、あっ!!」
かごめが異様なものを見るように、草太にじゃれつかれている殺生丸に目を丸くした。
「殺生丸、あんた…普段冷たい顔してるくせに、小さいのにじゃれつかれると結構優しくしてやるのね…」
思わずそう呟いたかごめが、自分もそっとその毛皮に手を伸ばす。
「うーん、でも、確かにこの感触はちょっと捨て難いかも…。」
「やっぱり姉ちゃんもそう思うよね?」
兄弟揃って殺生丸のもこもこ談義をしている一種異様な光景がそこにはあった。そして殺生丸はといえば…戦国時代にいる時ならば決して見せないであろう、少し困った様な表情をしてその場に佇んでいて。
「お前らっ、駄目だぞ、不用意にこいつに近付いちゃ。綺麗な顔してやがるけど俺なんかより数段恐ろしいからな、気が付いた時にはあの世行き、なんてことにもなりかねねえぜ。」
外の話し声に気付いたのだろう、家の中から現れた犬夜叉に二人を引き剥がされて怒るでもなく漸く普段の表情に戻る。
「犬の兄ちゃん。」
「あら、犬夜叉…いきなりどうしたのよ。お風呂入ってきていいわよ、私達その間このもこもこに触らせて貰ってるから。」
べりっと音の立つ様な引き剥がし方をされてなお、平然とそんな事を言い放つ兄弟に、犬夜叉は冷や汗を流した。
「ま、まあとにかく中に入って。」
場を取り成したかごめの母に、今度は殺生丸も素直に従う。履物を脱いだその素足がまるで雪の様に白くて、初めてそれを目にした面々は思わず感嘆の声を上げた。
「…男にしとくの、勿体無いわ。」
ぼそりと呟いたかごめの言葉と、草太が『一緒にお風呂に入ろう!!』というのが同時で。ぎょっとした犬夜叉に反して、殺生丸はただぼんやりと言い出した草太の顔を見つめるだけだ。
「ね、犬の兄ちゃんの兄ちゃん…いいでしょ?」
…心なしか、幼子の顔がきらきらしている様な気がする。
先程から兄が一言も発していない事に今更ながらに気付いて、犬夜叉が少しばかり心配そうにそちらを見やった。
「…おい、殺生丸、大丈夫か?このまま黙ってると、お前、自然に湯殿に連れ込まれちまうぞ。」
殺生丸は小声で囁いた犬夜叉の方に呆然と視線を向けて。犬夜叉はと言えば、初めて目にした兄の頼りなげな表情にどきりとしてしまう。
(…お、俺も一緒に風呂に入りてえかも…)
そんな心の声は一応こっそりとしまっておいたのであるが。
「と、兎に角な、草太。こいつ未だこっちの世界に来たばっかりだから、あんまり困らせないでやってくれ。誰かと一緒に風呂に入るのとか、ちょっとこいつにはきついと思うんだ。」
幼子に向かって助け舟を出して納得させると、漸く殺生丸の顔に心なしかほっとした様な表情が浮かんだ。
「うーん…じゃあ、明日は一緒に入ろうねっ!!」
殺生丸が肯くのを確認する事もなく、草太はそう言うとぱたぱたと走って行ってしまう。
「一時間位したら御飯にするから…それまで適当に過ごしててね。」
自分の息子の後姿を見送って、かごめの母も台所へと戻って行って。犬夜叉・殺生丸・かごめの三人は漸く居間へと落ち着いたのであった。
2004/02/06 Shisui Gagetsu
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