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幼心





 西国を支配する妖犬の一族。
 その長の館へ、東国を支配する妖怪の長が会合をしにやって来たのは、秋も深まる頃であった。
 ここ数年互いに諍いを起こす事が無かった故か、未だ幼い二人の息子も一緒に連れて、彼は屋敷を訪ねて来て。

「未だ公式には披露目をしておりませんが、せがれ供です。これ、影奇、楼奇、ご挨拶しなさい。」

 父親に促されて一人前に頭を下げる幼子達を、犬の一族の長は微笑ましい思いで見つめた。

「よくぞ参られた。…後程私の愚息供にもご挨拶させましょう。館の中は自由に歩き回って頂いて構いませんぞ、子供が遊んで楽しいものがあるかどうかは分かりませぬが。」

 そう挨拶を返し終わるか終わらぬかという時、廊下にぱたぱたと音がして、小さな影が駆け込んで来る。

「父上っ、お客様?」

 年の頃は訪ねて来た幼子達とそうは変わらず。彼はこの犬の大将の二人目の息子で、名を犬夜叉といった。

「犬夜叉、客人がいらしている時くらい、静かに歩きなさい。」

 苦笑しながらそう言う父親に窘められて、改めて東国の長の前に辞儀をする。

「これはこれは…大きくなられましたなあ、風の噂で二人目の御子が生まれたとは聞いておりましたが。」

 大きくなった、と評されて、犬夜叉の頬が嬉しそうに紅潮した。

「犬夜叉、殺はどうしておる?」

 父からの問い掛けに、犬夜叉は不思議そうな顔をする。

「…だって兄上、滅多に出て来ないから…分からないよ。」

 そうか、と頷きながら、やはり自分の血を分けたこの二人の息子達の間には埋められぬ溝が出来てしまったのか、とぼんやり思った。

「…わざわざ東から来て下された大切なお客人だからな、殺も呼んでおいで。」

 父に命じられて一瞬迷ったものの、犬夜叉は頷いて、来た時と同じ様に又ぱたぱたと駆けながら部屋を出て行く。と、室の襖からその姿が消えた直後に、柔らかく何かにぶつかる様な音と共にその足音が止まった。
 どうしたのであろうかと廊下を覗いてみれば、きちんと正装してその場に佇む殺生丸と、その身を飾る毛皮に頭から突っ込んだ犬夜叉の姿。恐らくは部屋を駆け出した際に、反対側からやって来た殺生丸にぶつかったのであろう。

「…ご、ごめんなさい、…兄上…」

 普段からあまり親しく語らった事の無い兄に全身で体当たりをしてしまって、上を見上げる事も出来ず毛皮に顔を押し当てたまま、くぐもった声で犬夜叉が謝罪の言葉を口にする。
 対する殺生丸は、特には気分を害した様子も見せずに弟の頭をくしゃりと撫でて、部屋の中から顔を覗かせていた父親の許へと静かに歩みを進めた。遅れまして申し訳ございません、と父に小さく頭を下げてから、室の中の客人に膝をつく。

「お久し振りでございます、奇龍様。…御子息方も、ようこそお越しを。御父上からお聞き及びかも知れないが私の名は殺生丸と申します。」

 室内にいた一同の口から思わずほう、と溜め息が出る程に、その物腰は見事なもので。
 東国の長―――彼の真名は奇龍と言ったが―――は返礼代わりに殺生丸の手に触れ、その顔を上げさせる。

「いや全く…弟君には大きくなられた、と申し上げたが、貴方には綺麗になられたと申し上げたいものですな。」

 その言葉を受けて殺生丸が静かに顔を赤らめるのを見て、父である大妖怪が苦笑する。

「はは、奇龍殿は殺を随分と御気に召して下さったようですな。」

 二人の首領は互いに顔を見合わせて笑い合い、次いで奇龍が己が息子を順に紹介した。

「こちらが兄の影奇、こちらが弟の楼奇と申します。お気が向いたら、滞在中にこの子らにも色々と教えてやって下されよ。」

 二人の幼子は父親に促されて挨拶した後、顔を見合わせてひそひそとしゃべる。

「…綺麗な人だね。」
「うん、父上が見惚れてる位だしね。」

 小声で話しているつもりなのだろうが、周りにいた者の耳にもはっきりと聞こえて。
 奇龍も、そして殺生丸自身も、恥ずかしそうに顔を俯けた。

「で…では、私はこれにて下がらせて頂きます、ごゆっくりお過ごし下さい。」

 僅かにどもりながら、殺生丸がそう告げて裾を払って立ち上がったその瞬間。

「「ええっ」」

 二つの声が仲良く重なってその足を止めた。

「「遊んでよ、殺兄上っ」」
(姉上でも良さそうだけどねっ)
(うん、凄く綺麗だもんねっ)

 聞き慣れない呼称で呼ばれて、かつ小声であって小声でない音でとんでもない言葉を囁かれて、殺生丸の眉が僅かに寄る。
 それを見て二人の父親達は大きな笑い声を上げた。

「これ、失礼な事を申すでない、…聞こえておるよ?」

 と奇龍がたしなめれば、殺生丸の父親は、子供の言う事だから、と己が長子を宥める。父に”少し一緒に遊んでやれ”と囁かれて、殺生丸は黙って二人の幼子へと手を差し伸べた。
 無言のまま瞳で、おいで、と誘われて、影奇と楼奇の二人は歓声を上げながら両側からその手に抱きつく。



 一方犬夜叉の方は、と言えば、兄が品の良い物腰で挨拶をするのを戸口の所からじっと眺めていたのだが。
 今日初めて会ったような他所の種族の子供が兄の両側に遠慮も無しに張り付いているのはやっぱり気に入らなかった。

 俺だってやった事無いのに。
 大体何で兄上もそんな事させるんだよ。
 もし俺がやったらきっと無表情に振り払うんじゃないのか?

 二人を連れて敷居をまたぐ兄と、不意にかちりと視線がぶつかる。思わず睨むように見ていたのだろう、殺生丸はその瞳に僅かに不思議そうな色を浮かべてその足を止めた。

「……?」

 立ち止まった兄の瞳が穏やかな色を湛えて自分を映す。

「あの、俺も…行っていい?」

 小さく尋ねると、兄は黙って頷いて又歩みを進めた。

 …本当は、その腕の片方だけでも、叶うなら両方とも、自分が占領してしまいたい、と唇を噛みながら、犬夜叉は三人の後に続く。
 兄は終始静かなまま歩き、影奇と楼奇と紹介された二人の幼子は楽しそうにおしゃべりをしながらその両脇を歩いていた。



 着いた先は、中庭で。

「「ねえっ、何して遊んでくれるの?」」

 二人が期待に満ちた目線でそんな事を言った時、殺生丸は一瞬視線を巡らして弟の方を見つめた。
 その瞳を見て、ふっと思い当たる。
 …兄上は、もしかしたら普通の小さな子供がする様な遊びは、した事が無いのかな…?

「…何がしたい?」

 殺生丸の静かな問いに、二人の幼子は即座に『殺兄上が遊んでくれるなら何でもっ!!』と返してくる。
 どうやらすっかり”殺兄上”が定着してしまっているらしい。
 お前達の兄上じゃない、と言い返したかったけれど、下手な事を言った時の兄の反応が怖かった。

「…私は子供が普段何をして遊ぶのかは知らぬ故…そうだな、剣術の稽古でも付けてやろう。」

 その言葉に一番驚いたのは犬夜叉であったかも知れない。
 兄が常にその腰に差している刀を振るのを見た事は、かつて一度しかなかったから。…それに、手合わせをして貰った事も無い。

「「殺兄上、手合わせしてくれるのっ!?」」

 二人が嬉しそうに叫ぶのと、殺生丸が従者を呼んで木刀を持って来させるのが同時であった。
 程無くして、二本の木刀が届けられる。子供が使い易い様に、短めの、軽いものが選ばれていた。

「じゃあ、まずは僕からっ!!」

 殺生丸の手から最初に二本のうちの一本を受け取ったのは兄の影奇の方。意外にも素早い身のこなしで、殺生丸に打ちかかって行く。

 何合か打ち合いが続いて、犬夜叉はおや、と思った。
 以前見た兄の剣は、相手が反撃する暇も無い程に素早いものであった。それに比べると今は…随分と手加減している…むしろ相手のレベルに合わせているかの様な。
 稽古だから、かな…。

 それでも暫く打ち合えば、力の差は歴然としていて、影奇の木刀は空へと跳ね上げられる。
 はあ、はあ、と早い呼吸を繰り返して、それでも影奇は嬉しそうに笑った。

「綺麗なだけじゃなくて、凄く強いんだね、殺兄上。」

 当然だろ、俺の兄上だ、と咽喉まで出掛かったが、やはり心の中に秘めておく。

 続いて木刀を受け取ったのは影奇の弟の楼奇であった。
 兄がいとも簡単に刀を跳ね上げられたのを目の当たりにしたその表情には、適度な緊張感と畏れが浮かんでいる。

「…貴方方さえ良ければ…二人で掛かって来ても良いぞ?兄弟なれば、二人で戦う事もあろう…?」

 兄弟、か。
 俺達は兄弟だけど、二人で戦った事は無いし、多分これからも無いのかな…一度だけ兄が剣を振るのを見たあの時、確かに兄上は俺を庇ってくれたけれど。

 殺生丸の言葉に、一度は木刀を手放した影奇も木刀を受け取る。
 二本ともを渡してしまって、殺生丸自身は何の得物を使うのかと犬夜叉が眺めていると、彼は懐から小さな懐刀を取り出した。

「大丈夫だ、鞘は払わぬ。…かかって来られよ。」

 あんなに小さな得物で、と思う間もなく、打ち合いが始まる。
 東国の兄弟の連携もそれなりに見事なものだったが、殺生丸はその懐刀でもって、初めに楼奇の、次に影奇の木刀を跳ね飛ばした。

「「…ふ、二人掛かりでも敵わなかったね」」

 地面に尻餅を付いてそう言う兄弟の顔は、それでも満足そうだ。

 …羨ましい。
 兄上は、俺とも手合わせをしてくれるのかな…それとも、俺は此処で見ている事を許されただけなのかな。

 そんな事を思いながら、犬夜叉は祈るように今は此方に背を向けている兄を見つめる。
 不意に、その白銀の髪が大きく揺れて、兄の瞳が犬夜叉のそれをじっと見つめた。

 座って見ていた縁側から引き寄せられる様に立ち上がると、間髪を入れず木刀よりも重みを持つ物を投げ渡される。
 はっとしてそれを見れば、渡された物は今の今まで兄の腰に差されていた長刀。

「危ない故、お二人は暫く下がっておられよ。」

 低い兄の声が響いたかと思うと、先程からずっと鞘におさまったまま兄の掌に握られていた懐刀が、きらりとその銀色の刀身を現した。
 影奇と楼奇の二人は、はっとした様に庇の下まで下がる。

「…真…剣…?」

 思わず呟いた犬夜叉の言葉に、兄が目線で手元の刀を抜けと命じた。
 言われるままに引き抜いた刀は少し重くはあったが、綺麗に反った刀身が美しかった。

「…覚えておけ、犬夜叉。戦場で行われるのはいつでも命のやり取りだ。真剣を抜いたら、相手を刺し殺すつもりで本気で掛かれ。」

 低く告げられた言葉は、紛れも無く今までの二人には与えられなかった特別な指南で。
 自分は手合わせさえして貰えないかも知れない、と思っていた少し前と比べると信じられぬ程に幸せな気分になれた。

 …でも、今俺に真剣を抜かせたという事は…。

 思わず当惑した様な顔をした犬夜叉に、殺生丸は、構わん、と小さく返す。
 鋭い眼光に見据えられて、気合と共に地面を蹴った。

 与えられた長剣は思いの外手に馴染むものの、がむしゃらに振り下ろした刀はさらりと避けられてしまう。

「何処を狙っている、力だけで振り回すな。」

「もっと素早く!!」

 合間合間にそんな指示を与えられて。
 中々実践するのは難しかったけれども、何とか兄に認めて貰いたいと、その一念で刀を振り続けた。

 避けられるばかりの剣が、やがて兄の持つ小刀で受け流される程度にはなって。それでもこの兄は随分と手加減をして手合わせしてくれているのだろうと思う。
 ある一瞬、犬夜叉の剣先が殺生丸の頬を皮一枚で掠めた。手に伝わる感触に違和感を覚えて、次に兄の頬に小さく出来た傷から染み出す血の色を見たその瞬間に、手に持つ長剣が跳ね上げられた。
 あの長刀を小刀で跳ね上げた兄の剣筋に感銘を受けながら、同時に傷をつけてしまったという罪悪感が募る。

「…ごめん…傷が…」

 駆け寄ってそう言った犬夜叉に、大丈夫だ、と言った後、兄は再び厳しい指南の言葉を向けた。

「真剣を用いれば、傷が出来るのは否めぬ。だが、相手の血を見て動揺していては、こうして武器を取られる恰好の機会になってしまう。戦う時は、相手の傷ではなく、ただただ相手を倒す事だけを考えろ。」

 その後不意に兄に右手を取られて、つられて其処に目を向ける。
 剣を合わせるのに夢中で今まで気付きもしなかったが、自分の手にも幾筋かの刀傷。
 もう既に乾いた痕と、未だ濡れている痕と。

 意外な事に次の瞬間、その傷を何か柔らかくて温かいものに吸い上げられて、それが何であるかを知るのに数秒を要した。

「…止血は出来たな。」

 小さく呟いた兄が、取り残す恰好になっていた二人の兄弟の方を振り返り、何事も無かったかのようにそろそろ戻ろう、と声を掛けた。
 父親達の談合が終わりとなる刻限だと気付いたのであろう。



「殺兄上、今日は有難うっ」
「次は僕らとも真剣で勝負してねっ」

 彼らの父親について屋敷を後にする前、影奇と楼奇は再び殺生丸の手を両側から掴んで強請る。

「…奇龍殿の大切な御子息に、真剣で傷を付ける訳には行かぬ。」

 低い声で几帳面に返す殺生丸に、傍から聞いていた父親達が笑った。

「二人とも、未だお前達の力では殺生丸殿に剣を向けるには弱すぎる。」

 彼ら自身の父親にそう指摘され、二人共がしゅんとしつつも、稽古に力を入れようと決意したとか、犬の一族の長が己の長子の頬に出来ていた切り傷から血を舐め取って、一時の事とはいえ雪のような肌に刻まれた傷を惜しんだとかいうのは、又別の物語。



* * *



「ねえ、兄上。…どうしてあの時、俺だけに真剣で相手をしてくれたの…?」

 あの日から、少しだけ兄との距離が縮まって、書物に目を通す兄のその横に座って時間を過ごしていた昼下がり。
 答えてくれないかも知れないな、と思いながらも尋ねてみる。

 随分と、間があって。

「…あの幼い子らも、もしかしたらいずれ一族の敵になる事もあるやも知れぬ。覚えておけ、手の内を見せてはしまわぬ事が、自衛には一番肝要な事だ。」

 冷静な兄らしい返事がぽつりと返ってきた。
 そうかぁ…でもじゃあ俺は、取り敢えずは兄上に一族の一人として、弟として認めて貰えているんだな、と何だか嬉しくてならなかった。

 相変わらず書物に視線を預け続けている兄の腕に、あの二人がやっていたのを真似てそっと抱きついてみる。
 兄はちらりと此方に視線を投げたものの、咎める事をせずに再び書物に目を落とした。

 暖かな午後の陽射しに僅かに眠気を覚えて、犬夜叉がその体勢のまま腕にもたれて眠ってしまっても、兄がそれを振り払う事は無かった。




◇ 後記 ◇
露木様から頂いた素敵犬殺イラストへの添え文として作成させて頂いたもので、『兄上は俺のだもんっ』という素敵台詞が執筆の中核を為しておりました。ちなみに作中で何の躊躇いも無く兄上が犬君の傷を舐めるのは、明らかに父上の影響です。(ええっ)

2003/11/22 Shisui Gagetsu






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