紅玉の夢
「紅玉の夢」
醜いのは嫌われる、 力なく弱いことはなおのこと。
だから望みどおりにズル賢くふるまって
たくさん意地悪をした。
後悔も悔しさも無く
胸の奥は痛くならなかった
ある日、闇夜に泣きたくなっても目からは涙も出ない
そして乾いた目が見つけたものは強く美しい生きている紅玉
後ろを歩く自分を、そっと振り返っているのを知ったとき
乾いたはずの目から涙がこぼれて
貴方を失わないためならば何だってするだろう
たとえこの命が何万回朽ち果てようとも
やがて山河を巡る道行に終わりが訪れ
あの御方の傍らで美しい瞳を閉じるとき
自分の紅玉は永遠に失われる
いつかその日が来るまでは
この目は、貴方から逸らされることはない
この夢は終わることはない
(Lyrics by Pochi sama)
辺りに渦巻く瘴気がゆっくりと治まっていく。
代わりに立ち込める白い霧。
「流石でございますな、殺生丸様。あの無礼な奈落めを消滅させなさるとは…!!」
いつもの通りに駆け寄ってそんな風に褒め言葉を述べる邪見に、しかし殺生丸は普段通りの無言で応じはしなかった。
「…私から…離れろ、邪見。」
―――何故…?どうして今になって『離れろ』などと仰るのだろう。従者としてはいつも失敗ばかりして来たけれど、今まで『離れろ』と言われた事は無かったのに。いつだって、傍に居る事をただそっと許して下さっていたのに。
「…嫌でございます、殺生丸様!!この邪見も、どうか、どうかお連れ下され!!」
元々恥や外聞など、当の昔に投げ捨てていたけれど。今は必死の思いで静かに佇む主の裾に取り縋る。
「―――そうではない、邪見。奈落を消滅させる為に…私もそれなりに力を消耗した。今私から離れねば…お前も共に黄泉の国へと誘われる。…ここが何処だか…分かるだろう…?この深い霧、以前にも一度見た…あの世とこの世の境に近付いている証拠だ。」
思えば殺生丸がこれ程までに多くの言葉を発したのはこれが最初だった様な気がする。いつも言葉少なく、行動と、そして鋭い目の色だけで全てを語る主であった。
そしてその語られた内容にも、驚愕を禁じ得ない。
「殺生丸様…?」
思わず問い返した邪見に殺生丸は有るか無きかの微笑を浮べた。
「分かったのなら、早く行け…。りんの面倒を看てやってくれ、犬夜叉の所にでも身を寄せればお前に危険が及ぶ事も無かろう。」
淡々と語ってはいるけれど、主の言葉の内容は間違いなくその死期を意味していて。
「嫌でございます、たとえ行く先が黄泉の国であろうとも、この邪見、殺生丸様のお傍を離れたくはございませぬ!!」
悲鳴の様にも聞こえる邪見の訴えに殺生丸は困ったように眉を寄せる。そしてその瞬間に辺りの濃霧が更に増し、二人の視界を奪ったのだった。
* * *
「殺生丸っ!!」
傷だらけで、しかしかろうじて生き残った仲間達。
彼らの目の前で犬夜叉の兄である大妖の姿が次第に薄らいでいく。先ほど強い妖気の爆発によって奈落の瘴気を打ち払ったその人の姿が、白い靄の様なものの中に包まれて。
思わず叫びを上げた犬夜叉の心中にはしかし、確信にも似た感覚があった。
―――あれ程までに刃を合わせ、そして相反した兄の玉の緒が、今、正に途切れんとしているのだと。
「…何…でだよっ…!!奈落なんかに…命までくれてやる必要なんて、無えだろうがっ!!」
慟哭にも似たそれが地面に共鳴する頃にはその白い影は完全に消え去って。
「殺生丸様…」
ぽつりと呟いた彼の連れ子の頼りない声だけが残る。
かごめの矢も、そして桔梗の矢でさえ、奈落の強すぎる邪気を拭い去る事は出来なかった。
それでも最後まで希望を捨てずに闘い続け、もう駄目かとすら思う強い衝撃波が奈落から発せられた時、まるで犬夜叉を守るように白い影が目前に降り立ったのだった。
予測した衝撃は訪れず、意外そうな表情を隠しきれない奈落と、普段と寸分違わぬ冷静な面持ちで敵を見遣る兄。
「なっ、殺生丸、てめえ、いきなり…」
憎まれ口を叩きかける弟に、殺生丸は振り返る事無く声を放った。
「…少し黙っていろ。父上が私に残した最後の仕事をしに来たまでだ。」
『父上』。
殺生丸が鉄砕牙を求めてしきりに犬夜叉に迫った時から、常に二人の関係に関わる人物。
「…親父がどうしたってんだよっ!?」
何とはなしに胸騒ぎがして、枯れかけた咽喉から必死に声を絞り出す。
「父上が私に遺されたこの剣の…最後の奥義を見せてやろう。」
そう言う兄の口許には微かな笑みが刷かれている。
「ほう、殺生丸。その剣はなまくらだと言うではないか。貴様の奥義とやらでこの奈落を倒せるかどうか、見届けてくれよう。」
不敵に口角を上げる奈落は、更なる瘴気をその身体から撒き散らした。
それを殺生丸は眉一つ動かす事無く見返して。
「―――さらばだ。」
それが彼の発した最後の言葉となった。
それは奈落への弔いの言葉でもあり、常に背を向け合った弟への別れの言葉でもあったのだろう。
次の瞬間、爽やかな風の様なものが回りに渦巻き、辺りを覆う瘴気が凪ぐ。その風が見る間に強く、激しくなり、思わず瞳を閉じた時、大きな圧迫と共に息苦しさが晴れた。
瞳を再び開けた時、辺りの瘴気も、そして奈落もすっかり消え失せて白い霧だけが残っていたのだ。
その霧の中のぼんやりとした人影に、迷う事無く小さな影が走り寄る。何か語りかけているらしいその声はしかし霧に阻まれて犬夜叉達の場所までは聞こえず、やがて小さな影諸共に美しい白銀の影は姿を消した。
「…刀々斎、何だよ、今のは。」
ややあってからぽつりと犬夜叉が漏らした言葉。
後ろの方から三つ目の丑に乗った老人が呆気に取られた様な表情を向ける。
「天生牙にはな、お前の親父殿が浄化の力を篭めたのじゃ。わしが刀を鍛えたその後でな。どんな事があっても持つ者を守る様に、そして強大な負の力が世を覆った時はそれを打ち払う様に。あの剣にあんな奥義があったとは、わしでさえ知らなかった。…しかしなあ、本来なら殺生丸を守る筈の剣がその命まで道連れにするというのは…余程あの奈落という名の妖怪の力が強かったか…あるいは親父殿と殺生丸の魂が半身を取り戻したいと呼び合っていたのかも知れんなあ。」
ぽつりぽつりと語られた内容に静寂が訪れる。
「そう、なんだ。…殺生丸、いつも『父上』って言ってたもんね、…これで幸せに、なったのかなあ…。」
涙の雫を零すりんの肩を抱きながら、かごめがぽつりと呟き、一行は暫くその場から動こうとはしなかった。
* * *
「…邪見、この様な所までついて来てはならぬ。お前の命数は未だ尽きてはいないだろう?」
邪見の意識が戻ったのは、常より随分と穏やかな主の声によってであった。
否、もうずっと昔にこの声を聞いた事があったろうか。そう、主の父王が存命の頃に。
周りを見渡せば巨大な骨が囲う天然の墓場。殺生丸と犬夜叉の父王の墓なのだと自然と知れた。
「やっと私のすべき事が終わった。何を思い遺すこと無く、父上の許へ赴ける…。」
巨大な骨の一つに寄り掛かりつつ独り言の様にそう呟く殺生丸。
「邪見、お前を現世に帰す事が私の最後の仕事だ。…残った妖力の全てをお前にやろう。私には、もう無用だから。あとは天生牙がお前の行く先を導いてくれるだろう。強さに奢る事無く、幸福を掴むがいい。お前が思うほどに、お前は孤独ではないのだと分かる筈だ。」
ふわりと膝の上に抱き上げられて。
何も言えずにただ主を見上げる邪見の額に殺生丸はそっと己の右腕を当てた。
温かい様な感触がその位置を境に身体中にみなぎって来るのを感じて、次いで身体がふわふわと浮遊感を覚える。程無く意識が遠くなって…かの主と出会った頃の事が走馬灯の如く脳裏に蘇った。
「やあーい、弱い妖怪なんか、妖怪じゃないやい!」
「反撃も出来ないなら、大人しく殺されちまえばいいんだよ!!」
「年だけはとってるくせにな!!」
何も、言い返せない。
知っている、自分が弱いと、そして醜いと。
こんな事は珍しくも無い、ただ奴らの興味が自分から離れて行くまで耐え忍べばいいだけだ。
だから、その言葉を聞いた時には本当に驚いた。
「何をしている。」
丁度変声期にあるのだろうか、高くもあり、又低くもある落ち着いた声。
邪見の背後から聞こえたそれに、それまで彼の事をいびり続けていた子供達は一斉に顔色を変えた。
「…わ…若様…。」
若様、という事はやはり未だ子供なのだろう、だがそれでいて強大な妖気と圧力が窺えた。
子供達は一言二言何事か呟いて慌てて逃げ出して行く。
―――助かった。…今日はこれ以上嫌な思いをせずに済んだ。
そんな思いでほっと息を吐き、背後の相手が又去って行くのを待つ。
流石に助けてくれた相手よりも先に自分がこの場を立ち去る訳には行かなかった。…行くべき場所も、帰るべき場所もありはせぬのだから。
けれど、予想に反して相手が立ち去る気配はせず。代わりにぽつりと声が掛けられたのだった。
「…戦う術を求めるならば、私と共に来るがいい。」
あの日以来、主の様々な表情を間近で見てきた。
父妖怪の訪れを受けてその頬に浮かぶ、切なさの様なものも。散策に出た先で巻き込まれた戦闘での好戦的な眼差しも。恐らくは悲しみを拳を握り締めつつ耐えているのであろう背中も。
―――強大な妖力を持ちながら、この方も孤独なのだ。わしと同じ様に、寂しさをその身の内に抱えて居られるのだ。
そう思った時に、何故だか自分の胸にいつの間にか巣食っていたいじけた気分が跡形も無く消え失せていた。
『自分は本当に弱いけれど、それでもこの方の為なら、この方と共に居る事を許される為ならば、どんな事でもして見せよう。』―――そう、思えたのだ。
* * *
「おい、しっかりしろよ。」
「ちょっと…!!大丈夫なの、傷は無いみたいだけど・・・」
辺りの喧騒に再び意識が戻る。
目を開けた先には自分が常に付き従ってきた美しい妖怪の姿こそなかったけれど、その弟達の一行とりんが自分を覗き込んでいた。
「邪見様…。」
小さく呟かれた無邪気な言葉に、ああ、自分はまだ現世にいるのだ、正確には殺生丸が自分を現世へと送り返したのだ、と悟る。
「…わしは一体、どうやってここに…?」
ぽつりと疑問を口にしてみれば、かつては熾烈に争った不良法師が返答を返す。
「お前は兄上殿の毛皮に包まれてこちらの世界に戻って来たのですよ。…不思議な燐光に包まれて、ね。」
ああ、本当にあの方は逝ってしまわれたのだ、と。
思わず瞳に涙が滲んだ邪見の肩を犬夜叉が慰めるかの様に不器用に叩いた。その邪見の身を、いつもしがみついていた先の毛皮がふわりと支える。
別れの餞にとそれを与えたのは、もしかしたら、ずっと共に旅を続けた老妖怪に対する殺生丸なりの感謝だったのかも知れない。
「あっ、邪見様、爪の形が尖ってるよ?」
幼子に不意に指摘され、今際の折の主の言葉を思い出す。
『残った妖力の全てを―――』
そう言えば、試してもみなかったけれど、新しい技を使えたりする様になったのだろうか。
例えば、あの方と同じ様に…。
「…毒華爪っ…!?」
唱えてみて、邪見自身唖然とせずにはいられない。
「わあ、駄目だよ、邪見様!!お花がとけちゃってる!!」
慌てて叫ぶりんの言葉通り、かつて主が使ったと同じ技が自分の手指から出されて。
…あの時の殺生丸様の言葉はこういう意味だったのだ。これからは、万が一の時にはりんを守ってやる事位は出来るだろう。
故人への感謝と、共に過ごした日々の思い出が、再び邪見の心を優しく包んでいった。
血にまみれてもなお、その魂の輝きが美しかった主。
黄泉の国でその求める相手と出会えている事を、そして滅多に見る事叶わなかった笑みをその頬に浮かべていてくれる事を切に願う。
◇ 後記 ◇
艶めいたものではないけれど、殺生丸と邪見の主従の間には、きっと特別な絆があった筈―――死にネタだけに、かつては裏頁に安置していた作品ですが、読み終えた後にふっと心が温かくなるような、そんな印象を持って頂けたら幸せです。冒頭の詞をご提供下さったポチ様のリクエストでした。
2004/04/17 Shisui Gagetsu
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