記憶の海
「…なあ…目が覚めるまで居てくれるか…?」
後ろで犬夜叉が居座っているせいで、ちっとも受験勉強に集中出来ないかごめの耳に、くぐもった声が聞こえた。
はっとして振り返ると、其処にはベッドに突っ伏す犬夜叉の姿。
「ね…寝言なのっ!?」
呆気にとられたかごめが見守る先で、犬夜叉の指が何かを掴むかのようにぴくりと動く。
「兄…上…」
続いて犬夜叉がつぶやいたのは信じられない言葉で。
犬夜叉の兄といえば、いつも顔を合わす度に刃を交えるばかりのあの殺生丸しか思い浮かばないかごめは、他にもお兄さんがいたのかしら、と目を瞠った。
大体ねえ。
仮にも女の子の部屋で居眠りするんなら、寝言で他人の名前を呼ぶのはどうかと思うわよ。
まあ、桔梗の名前を呼ばれるよりは断然ましだけどさ。
心の中で、そんな事を呟いて。
「ああ〜…久し振りに良く眠ったぜ。」
数刻後、大きく伸びをしつつ起き上がった犬夜叉を、ほぼ徹夜状態であったかごめはちらりと見やった。
「な…何でいっ!!」
かごめの瞳に少々意地悪気な光を感じて、犬夜叉がやや乱暴な口調で問う。
「別に〜? ああ、あんた、寝言言ってたわよ。」
机に向かったまま肩越しにそう声を放られて、犬夜叉はカチリと固まった。
…な、何か俺やばい事言ったのか…?凄く幸せな夢を見てたような気がするけど、何の夢だったか全然覚えてねえっ!!
犬夜叉が後ろであたふたと動揺するのを、かごめは横目で暫く楽しんだ後、ぽつりと答えを投げてやる。
「あんた、殺生丸以外にもお兄さんがいたのね。すごく切な気に、”兄上”って呼んでたわよ。」
「は?あいつの他に兄貴なんていねえぞ?」
咄嗟に答えた言葉が更に墓穴を掘った。
「…ふうん?昔は仲良かったんだ、殺生丸と。」
少しだけ意外そうに振り向いたかごめに、知らねえっ、と犬夜叉はそっぽを向いた。
「俺をからかって遊んでねえで、さっさと『受験勉強』とやらを済ましちまえよ。早くあっちの世界に帰って四魂の欠片を探すんだからなっ」
照れ臭そうに、そう話を変えながら。
そうだな、殺生丸とこんな風に険悪な間柄になったのは……親父が死んでからだ。もう随分と昔の事で、今の俺は親父の顔さえもはっきりとは思い出せない。
でも、どうしてだろう。
幼い日、今よりずっと穏やかな表情を浮かべていた殺生丸―――俺は当時確かにあいつを兄上と呼んでいた―――の事は鮮明に覚えているんだ。
言葉少なでも、時折慈しむかのように俺の頭を撫でてくれた、白くて、繊細で、そしていざという時には誰よりも強い手。
その、片方を。……あの時親父の墓で、俺は切り落としてしまった。
戦っているその瞬間は、死にたくない、かごめを守らなければ、とその一念で戦っていたけれど。
今、冷静になって考えてみれば、いつだって俺が武術の腕を上げた時にそれを導いてくれたのはあの兄であった事を思い出す。
多分、自分の腕を犠牲にしてまで、俺に戦い方を教えてくれたんだ…。俺だけだったらきっと持て余す事しか出来なかった父の刀の使い方を。
その刀の結界が何故兄を拒み続けるのかは、今をもって謎なのだけれど。
そうする事が、親父の遺言か何かだったのかな―――。
「犬夜叉!!かごめ様も、戻って来ていたのですね!」
「おお、今回は割りと早かったのう、待っておったぞ。」
「お帰り、かごめちゃん!!」
二人が井戸をくぐってしばらくすると、共に旅を続ける仲間達がいつもの様に上空から雲母に乗って現れる。
「おう。おめえらもへまして襲われたりはしなかったみてえだな。」
犬夜叉が軽口で返事をするのに、弥勒が諦めた様な溜め息を漏らす。
「全く、お前は…いつまでたっても礼儀というものを知りませんね。こういう時は『待たせて悪かったな』くらい言うものですよ。」
「そうじゃな、犬夜叉は全く大人気が無いからのう…」
「口が悪いよね〜」
調子に乗ってからかう仲間達に、犬夜叉の我慢の糸が又もや切れた。
「だあっ、おめえらだって似たようなもんじゃねえか。」
反撃する犬夜叉を気にする事無く。弥勒はまたも溜め息をつく。
「はあ…殺殿は物腰からしてあんなに品がおありなのに…」
その台詞にぴくり、と犬夜叉の耳が動く。
「…おい、今何て言った。」
「ですから。兄上様はあんなに品がおありなのに、大違いですなあ、と。」
ぬけぬけと言う弥勒に調子を崩されながらも、犬夜叉は更に言い募る。
「そんな事はどうでも良い…、ってどうでも良かあねえけどな、問題なのは今てめえが使ったその呼称でい!!」
「ああ、仕方が無いでしょう、殺殿がそう呼べと仰ったのですから。」
殺生丸が弥勒にそう呼べと言った!?…何でだよ、まだ数回しか会った事すらねえだろ、しかも敵味方の間柄として。
「いつ会ったのかと聞きたそうですな。お前がかごめ様の所へ向かってからすぐに、ばったりとお会いしたのですよ。」
何で俺がいなくなった途端に”ばったり会う”んだよ…。
「へえ〜、良く斬り殺されなかったなあ!!」
「当たり前でしょう、会ってすぐに刃を向けられるのなどお前位です。私には背を向けたまま、『何の用だ。』と仰っただけでしたからね。」
「うるせえっ、刃を向けられるって事はそれだけ俺の力をあいつが認めてるって事でい!!大体な、『何の用だ』はあいつの口癖みてえなもんだ、別にお前が気に入ってそう言ったわけじゃねえ。」
二人の口喧嘩の内容ははたから見ているかごめや珊瑚にとっては酷く滑稽なものだったが、本人達は至って真剣だ。
「なんか…やっぱり犬夜叉って本当は殺生丸と仲良くしたいって思ってるのかな…」
ぽつりと呟いたかごめに珊瑚が意外そうな顔をして振り返る。
「どうして?かごめちゃん。」
珊瑚の問いにかごめは又もや首をひねる。
「だって…あいつ、寝言で呼んでたのよ、『兄上』って。…すっごく切なげな声音でね。」
弥勒の言った通り、犬夜叉とかごめを除く旅の一行が殺生丸に会ったのは、犬夜叉が骨喰いの井戸をくぐってすぐのこと。
かごめを迎えに行った犬夜叉を送った帰り道で、風に吹かれて遠くを見据える大妖を見つけた。近くにあの人間の少女と小妖の姿は見えず。
例え背を向けていたとしてもとっくに此方の存在に気付いている筈なのに、妖はあくまで無関心なままだ。
「あの…兄上殿?」
まるで何かに引き寄せられるかのようにふらふらと近付く弥勒を珊瑚と七宝がぎょっとした目で見つめる。
「何をやっとるんじゃ、弥勒。折角見逃してくれとるんじゃからさっさと通り過ぎるんじゃ!!」
「そうだよ、法師様。今は犬夜叉も居ないんだし…戦闘になったらまず勝てな…」
二人が慌てて止めた時は既に遅く。
白銀の妖はその黄金の瞳をしっかりと弥勒の上に移した後だった。
「ああ…折角助かったかもしれない命を弥勒のせいで無駄にしてしもうた…」
「七宝、駄目だよ、戦う前からそんな事を言っていては勝てるものも勝てなくなるよ。」
「そうは言ってものう…珊瑚だってあいつ相手に勝てる気はしないんじゃろ…?」
「う…まあ、そりゃあ難しいとは思うけどさ…」
そんな二人のやりとりを気にする風もなく。弥勒と妖は互いをじっと見たまま微動だにしない。
「またお会い出来ましたなあ。」
何処か幸せそうにも聞こえる口調で弥勒がそう言うのに、妖は怪訝そうな顔をして。『何の用だ。』、と唯それだけを問うた。
「いやあ、別に用というほどではないのですが。ああ、犬夜叉なら今日は居ませんよ?」
小首をかしげる法師に、知っている、とすげなく返す殺生丸。
そのままふわりと足を踏み出す妖に、弥勒はまるで誘われるようについて行く。
「…貴様、何故ついて来るのだ。」
僅かに眉を寄せた表情から、妖が多少なりとも困惑しているのが目に見える。
「兄上殿も今日は私を殺そうというお気持ちは無いようですし。だったら一緒について行けば私達も安全かなあ、と。」
飄々と言う弥勒に、殺生丸は今度こそ本気で眉を寄せた。
「よせ、鬱陶しい。弟の連れの守りまでしてやる趣味は無い。…それから。兄上殿、兄上殿と呼ぶな。」
「はあ…冷たいですなあ…では何とお呼びすれば宜しいので?」
残念そうに溜め息をつく弥勒。
「…呼びたいのなら名で呼べ。」
そう言ってふわりと身を宙に浮かせ、そのまま飛び去ってしまった妖を、弥勒は遠く見守っていた。
「で、気は済んだのか?」
「攻撃されなかったのは運が良かったね。それにしても酔狂にも程があるよ、法師様。」
少し離れた所で見守っていた二人が駆け寄ってくるのに、弥勒は相変わらずぼんやりとした顔で振り向いた。
「お名前をお呼びする許可を頂けるとは…犬夜叉が悔しがりそうですなあ…殺生丸様、殺生丸殿…ううん、堅苦しいですなあ…殺殿…これにしましょう。」
ぶつぶつ呟く弥勒を気味悪そうに見つめながら残る二人は目を見合わせたのだった。
噂の的である白銀の大妖怪が一行の前に姿を現したのは、間が悪い事にそのすぐ翌日の事。
いや、正確には”姿を現した”というより、”偶然行き会った”と言うのが正しいのだろうが。
「…っ殺生丸!」
「ああ…二三日振りですねえ、殺殿。」
各々異なった反応を示す犬夜叉と弥勒がそう名を呼んだ所で、殺生丸は怪訝そうに眉を上げた。
「…何だ。」
誠に口数の少ない妖である。
彼が第一声でこの誰何の言葉以外を発する所を、未だかつて二人は聞いたことがない。
「いえ、特に用事があるという訳では無いのですが…お姿をお見かけしたので思わず飛んで来たという訳ですよ。」
にっこりと喰えない笑みを浮かべる弥勒は、背後で珊瑚やかごめが『鼻の下のばしちゃって…』と呟いている事には気付いていないらしい。
「用も無いのに何故呼び止める…分からぬ男だ。」
憮然として呟いた後、美しい妖は興味を失ったかの様に今度は犬夜叉の方へと視線を向けた。
「お前は、犬夜叉。…まさか用も無いのに声を掛けたなぞとは言わんだろうな?」
口許に微かに浮べられているのは、美しくはあるが挑戦的な微笑。
「あったり前でえ!!」
思わず乗せられた犬夜叉がそう反応してしまう程の。けれど改めて『それで?』と問いを重ねられると、口篭る他無い。
「いや、その…な。ここじゃあ何だ、ちょっとこっちに来やがれ!!」
乱暴な言葉遣いは照れ隠しの最たるもの。殺生丸は微かに眉を寄せたものの、さくりと歩みを踏み出した。
「珊瑚ちゃん、犬夜叉何を言うんだと思う?」
「うーん…それよりも私は法師様がさっきから殺生丸に熱烈な視線を送り続けてる事の方が気になるんだけど…絶対盗み聞きに行きそうだよね。」
「!…そうよね、盗み聞きって手があるわよね!!」
小声で話しつつ感激した様に瞳を輝かせるかごめは、すっかり彼らの様子を盗み聞きするつもりでいるらしい。
「…。」
無言のままに普段の鋭い黄金色の眼光で見据えられて、最初はどもっていた犬夜叉は徐々に逆切れしたいような気分になって来た。
「大体よ、なんで弥勒の野郎がてめえを”殺様”なんて呼んでるんだよっ!?」
取り敢えず今最も犬夜叉のストレスを倍増させている原因はそこらしい。
「?…弥勒というのはお前が連れて歩いているあの風穴を持つ法師の事か。会うたびに私を”兄上殿”、”兄上殿”とうるさいのでな、名を呼べと言った。”殺様”と呼べと言った覚えは無い。」
淡々とした殺生丸の返答に犬夜叉はかっと赤くなり、盗み聞きをしていた弥勒はほんの少し背中を丸めた。
「…何で”兄上殿”が嫌なんだよ。そんなに俺と血が繋がっているのを否定したいのかよ。」
言い募る犬夜叉の声音はもはや駄々っ子の域。突っ張っている時の彼なら決してこの手の言葉は言わないだろうに。
「何を言っている。」
”当然だろう”という言葉が後に続くかと思えば、殺生丸はそれっきり口を噤み、どこか遠くを見つめるかの様に瞳を細めた。
「…ただ、少し昔を思い出して…余人にその言葉を使われるのは妙な心地がしただけだ。」
―――昔。
相容れぬ兄弟たちの記憶に今もまだ色褪せぬまま残っている事。かつて確かに『兄上』とじゃれつく犬夜叉の面倒を殺生丸がみていた、そんな一時があったのだということを。
「…そう、かよ。」
応じる犬夜叉の頬が心なしか赤く見える。
「…お前ももう”兄上”と甘えたい年齢でもあるまい…?私はもう行く。」
流麗な動作で踵を返した殺生丸が、『ああ、それから』と立ち去り際に微かに振り返って。
「お前は…わざわざ場所を変えて話す話を人に立ち聞きさせておくのが趣味なのか?」
その言葉にぎくりとしたのは隠れ場所としては随分とお約束な繁みの影に隠れていたかごめ達三人。七宝はどうやら雲母と共に留守番の様だ。
「あちゃー…やっぱり兄上殿の目は誤魔化せませんか…」
「…しっかり気付いてたのね、殺生丸…まあ、当たり前と言えば当たり前か…」
「問答無用で斬られなかっただけ有難いと思わないとね…。」
三者三様の反応を示す彼らへ前髪を逆立てた犬夜叉が恨めしそうに現れる頃にはもうすっかり殺生丸の姿はその場から見えなくなっていた。
「お〜ま〜え〜ら〜…」
地を這う様な声も、僅かに頬の赤みが残る状態ではあまり効果が無い。
「ふん、まあいいけどな。…ちょっと嬉しいこともあったしよ。」
殺生丸は…兄は、覚えていてくれたのだ。
ある時期を境にまるで人が変わったように自分に厳しくなった兄。―――時には、憎しみさえも感じさせる様な。
それでも心の何処かで…殺生丸の中にあの頃の記憶が未だ留まっていてくれたらなあと願っていた。自分にとって…最も大切な記憶の一つだったから…それを相手にも切り捨てずに持っていて貰いたくて。
小さい声でぶつぶつ呟く犬夜叉に対して、弥勒は随分と不満顔だ。
「…今回は負けましたが。いくらでも巻き返しは効きます!!私は殺様の心を射止めて見せますよ、犬夜叉…」
密かな闘志を燃やす弥勒の背中を『懲りないね…』と生温かい目で見守る珊瑚やかごめの姿に、果たして当の本人は気付いていたのか否か…恐らく自分の思考に夢中でその様な事は頭に無かったのであろう。
「兎にも角にも御名前でお呼びする許可を得たのです。…まるで恋人同士の様ではございませぬか。」
夢見る様な口調で呟く弥勒へ、思考から引き戻された犬夜叉がぎろりと振り返った。
「てめえ、何だと―――っ?」
彼らの争いは当分終わりを見ない様である。
◇ 後記 ◇
犬夜叉斬番700を踏んで下さったもちだ様のリクエスト、『旅の途中、殺生丸を取り合う弥勒と犬夜叉』から書かせて頂きました。途中少しだけ軽いテンポでの会話も入れてありますが、一番力を入れて書いたのはやはり犬夜叉の心理描写でした。
2004/06/14 Shisui Gagetsu
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