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寒椿





「…っ。」

 傷付いた様に僅かに顰められた眉と、驚愕を隠しきれない黄金の瞳。
 でも、それでも。あれは何一つ咎める事さえなく、まるで何事も無かったかの様にその場を立ち去った。

 本気で惹かれた訳では、決してない。ただ、誘われるままに一夜の事と手を付けたのも又事実。
 家臣の娘だ、屋形である私に一夜たりとも抱かれればそれなりの見返りが有ると思ったのであろう。
 …それが、よりによって此方から会いに行かぬ限り滅多に会い見える事さえ無い殺生丸の目に留まってしまうとは。

 『待て』、と引き止める言葉は喉の奥で引きつった様に留まった。
 引き止めてどうしようと言うのか、この女とは何でもない、と…?この明らかな目の前の状況を説明する術があるとでも…?

「どうなさったのです、御屋形様…」

 紅に塗った唇を僅かに笑ませつつ甘えかかってくる女を引き離して、乱れた着物を整えれば、未だ床に身を横たえたままの女は屈辱に顔を歪ませる。

「…先程まであんなに激しく求めて下さったくせに…こうしていきなり突き放すのがお好みなんですの?上に立つ方のなさる事とはとても思えませんわ。」

 捨て台詞の様にそんな言葉を投げられても、心はそちらを向かず。

「…若様、ですわね?」

 不意に掛けられた短いその台詞に漸く意識が女の方へと戻った。

「何を言っている。」

 確かにこの女と戯れる気が失せたのは殺の存在が原因だが、何故それをこの女が知っているのか解せなくて、自然と声が険しくなる。
 と、女の瞳が勝利を確信したかの様に細められ、その唇から華やかな笑い声が漏れた。

「ほほほ、誰も気付かぬとでも思っていらしたんですの?」

 絶句した私を嘲笑うかの如く、彼女の台詞は続けられて。

「若様や家臣達には知られたくないのでございましょう?宜しゅうございましてよ、これからもこうして時々逢って下さるならば、私の胸一つに納めておいて差し上げますわ。」

 弓弦の形になった真紅の唇が酷く邪悪なものに見えた。



* * *



「こりゃあ…ちいと危ういぞ、大将。」

 そんな言葉と共に難しい表情をして入って来たのは腹心の刀鍛冶である刀々斎。ひょうきんな面には、深い皺が刻まれている。

「…して、何が危ういと申すのだ。」

 本当は分かっている、かの男が何を言いたいのか。
 それでも敢えて問う辺り、目前に現れて来た問題に見て見ぬ振りをしたいのかも知れない。

「分かってるんだろうがよ。…家臣達が何て言ってるか、知らんわけでもあるめえ。下っ端だけなら兎も角、あの女の家系の輩は皆、だ。」

 大方、腹いせに私の悪口を一族に言いふらしたか。―――尤も、私の目が黒いうちは主だった反抗も出来まいが。

「それで…?」

 何の関心も無い様に視線を逸らせば、ぐいと袖を掴まれた。

「大将の思っている通り、家臣達があんたに歯向かう事は無かろう。…それはいい。…だがな、あんた最近、上の御子息に…殺生丸に会ったか?」

 ―――殺に会ったか、と…?
 何と無く顔を合わし辛くて閨に呼ぶ事も、夜半に訪れる事も控えてはいるものの、一日に一度は必ず姿位は見る。
 …特に変わった様子もなく、淡々と礼を取って去って行った筈。

「やつらはな、大将の事を『跡継ぎといえば片や半妖、片や抱き人形』と馬鹿にしていたのよ。…そこに殺生丸が偶然通り掛かってな…」

 瞬きをする間も無かったのだ、という。
 一瞬の内に陰口を叩いていた妖怪達の首が胴から離れ、殺生丸の爪から現れた鞭の様な光が辺りを二分したのだと。

「わしゃあなあ、殺生丸が自分の手を汚す所を初めて見たよ。いつも離れで一人、剣を振っているばかりだったろう…?溜め息が出そうなぐらい強いには強いんだが、何だか哀しくなってねえ…。」

 刀々斎はそこまで言うとぱたりとその口を噤んだ。

「―――私のせいか。」

 苦く呟けば、『そりゃあそうだろ』と素っ気無い返事。

「殺生丸の手をあんな事で血に塗れさせたのは…あんたの落ち度だな。…何とかした方がいいぞ、あんたの行いにきっと殺生丸は気付かずに苦しんどる。」



 自分でもまずい事をしたとは思っていた。
 ただ、生来の不器用な性格が災いして…今日まで何の弁解も、謝罪もせぬままに来てしまったのだ。殺生丸に親子を越えた感情を求めるなら、当然あの様な女妖怪に誘われるなど言外なのに。
 政治の上の事よ、と割りきって手を出すなど、魔が差したとしか思えぬ。

「私だ、入るぞ。」

 久し振りに殺生丸の室へと向かう足は心なしか重い。

「こ、これは御屋形様…。せ、殺生丸様は奥でお休みでございます。」

 離れの入り口の門を潜れば、慌てて飛び出してきた殺生丸の従者がそんな事を言いながら頭を下げた。
 『奥でお休みでございます』―――まだ床に就くほどに早い刻とも思えぬが…?

「殺は…どこか加減でも悪いのか。」

 思わず聞き返せば困った様な表情をした邪見が曖昧に首を振る。

「いえあの、御身体の具合はいつも通りとお見受け致しますが…ここの所、夜昼問わず起きていらっしゃる時間は鍛錬場に篭っておられて…出ていらしたと思ったら湯を浴びて眠ってしまわれるのです。ほとんど飲まず喰わずでいらっしゃるのに、気になさる風も無く…。」

 初めて聞く話に己の目は何と節穴だったことか、と自然に眉間に皺が寄る。

「あ、あの、御屋形様…?殺生丸様はつい先程お部屋に篭られたばかりでございます故、今頃なら未だお目覚めでいらっしゃるかと…。」

 慌てた様に言い募る小妖へ『下がってよい』と言葉を放れば、あっという間にその姿は視界の端から消えた。

「…殺。」

 薄暗く明かりを灯しただけの室内に向かって襖の外から呼びかければ、中では微かな衣擦れの音。

「…如何なさいましたか、父上。」

 僅かな間のうちに身支度をしたのだろうか、小綺麗な着物に身を包んだ殺生丸が自らそっと襖を開けた。

「いや。…入っても良いか?」

 形の良い唇から拒絶の言葉が発せられる事は無く、了承を表す様にその頭が微かに下げられた。

 顔を合わせたものの、何から話して良いのか分からずに。
 …いっそなし崩しにその身体を抱いて、無かった事にしてしまおうかと卑怯な考えさえ頭をもたげる。

「…家臣を何人か、始末したそうだな。」

 悩んだ末、結局最初に口から滑り出たのはそんな台詞。顔を俯けたまま表情を見せることのない殺生丸の肩が、見る間に強張る。

「…申し訳ございませぬ。」

 何の反論をする事も無く、ただ詫びてみせる彼に微かな苛立ちがつのった。

 ―――何故何も言わないのだろう?
 家臣との事にしても、悪いのはその家臣達であり、ひいて言うなら屋形でありながら彼奴らを抑えられなかった私だ。
 殺生丸が謝る事など、何一つ無い。

「咎めているわけではない。…ただ、刀々斎のじいが手を下すお前の姿が何とも哀しかったと申してな。」

 殺生丸は先程から姿勢を移さぬまま、父の声に耳を傾けていた。

「…私も、出来ればお前の手を血まみれにはしたくないと、そう思った。―――それだけだ。…のらりくらりと遠回りをしても仕方が無いな。数日前の事…覚えておろう…?お前が夜本殿の廊下を歩いていた日の事だ。」

 自分の息子ながら聡い彼だ、恐らくはその言葉だけで父親である私が何を言わんとしているか察するだろう。

「…あのような時刻に、申し訳ございませんでした。」

 けれど、返って来たのは感情を抑えて発せられたそんな言葉。

「何か、用だったか。」

 ―――違う、きっと殺は用があってあの場に居合わせたのでは無かろう。ただ書庫か、鍛錬場へ赴いた帰りに偶然通りがかったのに過ぎまい。
 だが、無機質な彼の声を聞いているとそんな意味の無い台詞が唇から零れ出る。

「…いいえ。時刻をわきまえず散歩をしておりましただけにございます、どうぞお気遣い下さいますな。」

 何処までも従順な逆らう事を知らぬ台詞。
 その声音だけに、押し隠された感情が滲み出ていると感じるのは私の独りよがりだろうか。
 半開きになったままの襖を閉めて、低い位置に座したままの殺生丸の肩をそっと抱き寄せれば、びくりと普段は無い反応が返って来た。

「…父上…今宵は少し疲れておりますゆえ…お話がそれだけでしたらどうかもうこのまま御捨て置き下さいませ…」

 震えている様な、細い声。
 疲れている、というのは嘘ではあるまい。…けれど、数日前のあの光景を見せてしまった私を思わず身体が拒んだというのもまた事実だろう。

「済まぬ、そなたを苦しめるつもりはなかった。」

 詭弁だと分かっていても、そんな言葉を告げて彼の寝室を後にするしか出来なくて。帰り際の夜の回廊で、庭先の花がぼとりと地面に落ちる音が空しく響いた。



* * *



「若様、お話がございますの…。」

 人気の無い時刻を選んで足を運んだ書庫からの帰りに、濃く化粧をほどこした女妖怪がしなを作って殺生丸に声を掛けた。

「…私に?」

 怪訝な顔になるのも無理は無い。
 普段ほとんど他者との関わりを持たぬ殺生丸には、館内で言葉を交わす間柄の者など数える位しかいないからだ。

「…ええ、そうですわ、若様に。」

 殺生丸の鋭い目線に動じる事も無く、女妖怪は鮮やかに笑う。

「何用だ。」

 短く問い返した瞬間に、殺生丸の脳裏に先日の晩の記憶が蘇った。
 …この、女は…あの時の…。
 理性とは別の所から来る嫌悪感で、こめかみがちりりと疼く。

「その御様子ですと思い出して頂けた様ですわね。私、貴方様にお聞きしたい事がございましたの。若様は御屋形様の閨のお相手でいらっしゃるんですの?」

 言葉遣いは丁寧でも、話の内容の何と下衆なことか。

「…是非も無き事を。」

 普段からあまり感情を面に出さぬ様に生きて来た己の生き様が、こんな時には役に立ったと思う。今も本当は心の中が殊の外波立っているのだから。
 けれど、もしその動揺を怒りをこの女に見せたならどうなる?父上の御名を汚し、御迷惑をお掛けするだけだ。
 いっそ斬り捨てて目の前から消してしまいたいとも心が望むけれど、そうするには父の昨晩の言葉が邪魔をした。『私も、出来ればお前の手を血まみれにはしたくない』…それは、父の私に対する優しさなのか、家臣を容赦なく始末した私への遠まわしな咎めだったのか、あるいは血まみれになった者など”閨の相手”には相応しく無いからなのかは分からないけれど。
 …増してや、もしこの女妖怪が父の最も愛する相手であったとしたなら?斬り捨てたなら、父は悲しむだろう。手を下した私を恨み、憎むに違いない。

「違うとおっしゃるんですの?でも、若様が私達の営みを御覧になってしまわれてから、御屋形様は急に興味を失ったように私を突き放したのですわ。…こんな風に自尊心を傷つけられて、黙ってなどいられません。」

 凄みを増して来た女妖怪の視線を何処か冷めた目つきで見返しながらも、彼女が口にした言葉を頭の中で反芻する。

 私と行き会ってしまった後、父上が行為に及ばずにこの女を突き放した…?
 それの意味する所は一体何なのだろう。
 閨の相手としての私に見られたのを気まずく感じられたのか、それとも息子としての私に見られたのを不快に思われたのか。
 そしてその事実にどうしようもなく安堵しているこの胸の内は何だろう。

「幸いにも私はそれなりに血統の良い妖。”抱き人形”としてしか価値の無い様な若様が御屋形様の心を掴んで離さず、私を受け入れて下さらないというのなら、その若様を排除するのみですわ。」

 黙って耳を傾けていた殺生丸の耳に不意に物騒な台詞が飛び込んで来る。
 ―――こんな女妖怪如きに負ける気はしないが…父の恋人だ、殺さずに追い払わねばならぬとなると中々に面倒か。

「覚悟なさるが宜しいですわっ!!」

 けれど予想に反して女の高笑いが響いた瞬間、彼女の身体は叩きつけられる様に地面へと崩れ落ちた。
 何が起こったのか、一瞬状況が把握出来ないままの殺生丸の前には、見慣れた、けれど少し厳しい表情を浮べた父の顔。

「…権力欲もここまで来ると無様だな。殺に手を出すのを私が黙って見過ごすとでも思うたか。」

 独り言の様に呟いた闘牙が、不意に強い力を腕にこめて殺生丸を抱きしめた。

「済まぬ、一番無様なのは私だな…。この様な女の誘いに乗って一夜を過ごそうとしていたなど…心を占めているのはたった一人しか居らぬというのに。」

 少しだけ腕の力を緩めて愛息の顔を覗きこむ様にした闘牙王の瞳に、殺生丸の僅かに潤んだ瞳が映る。

「…未だ伝えられてもいなかった、そなたを愛しているのだと。抱きすくめて、己の欲望を押し付けるばかりで。我ながら図々しいにも程があるとは思うが…どうか父の想いを受け入れてはくれまいか。」

 応えは瞼から零れ落ちた一粒の透明の雫と、口許に浮べられた微かな笑み。

「…嬉しゅうございます、父上…」

 先晩、庭の土の落ちた花の花弁は今は綺麗に片付けられて、大輪の紅の花だけが常緑樹の枝に見事に咲き誇っているのが実に鮮やかに場を彩っていた。



 ―――一部始終を地面に縫い付けられたまま眺めやった女妖怪は、その後かの二人の事を言いふらすことも、家柄の権力を振りかざして行動に出ることも出来なかったという。
 それはきっと、寄り添う二つの白銀の影があまりに仲睦まじくて、どんなに足掻いても割り込めはしないのだと悟らざるを得なかったからかも知れない。



◇ 後記 ◇
 『きんいろぎんいろ』の獅川ひこ様から拝領した3500斬番イラストに添えさせて頂いた父殺。大人の魅力溢れる渋い父上をリクエストして描いて頂いたので、拙文でも父上がオトナな営みをなさっております(笑)

2004/06/16 Shisui Gagetsu






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