天つ風
「…具合が悪そうだな。」
折しも肌寒い小雨さえ降って来た空の下、一人木の陰にうずくまって呻く法師の姿。
銀色の髪を風になびかせて音も無くその場に降り立った大妖が、静かにそれを見下ろす。
「…貴方、でしたか…ええ、少々へまをしてしまいましてね…。」
上を見上げて答える声は、常と同じ様に装ってはいるものの、やはり苦しさを隠しきれてはいない。
「…何故連れの元に戻らぬ…?一人でこの様な所に居て誰ぞに襲われでもしたら、一たまりもあるまい…?」
妖は静かにそう言ったが、その眉は微かに顰められていた。
「…弱っている姿など、見せたくはないものですよ…」
微苦笑を浮かべて返してくる法師に、ふう、と微かな吐息が漏れる。
「馬鹿な事を。…見栄を張るのは勝手だが、こうして敵である私に見つけられてしまっては元も子もあるまいに。」
そう告げれば、敵なのですか、と飄々と尋ねて来る。
確かに、今この瞬間に法師を始末しようなどという気持ちは妖には少しも無かった。風に乗って流れて来た弱々しい匂いに、見知る男だと当たりをつけてこの場に足を運んだのは彼の方で。
「…その様に地面にうずくまっていては濡れてしまう。」
差し出された隻腕に、弥勒は黙って掌を重ねる。
次の瞬間、身体が宙に浮いて、自分がかの妖が常に身に着けている毛皮に包まれて木の上にある事を知って。
「…温かいですな…」
感慨深げに呟く弥勒に、殺生丸は僅かに顔を背けた。
「本当に温かい…妖の毛皮とは雨水さえも跳ね返すものなのですなあ…」
何処かのどかな台詞を吐き続ける法師に、形の良い細い眉が更に寄せられる。
「…大方毒を体内に注ぎ込まれたのだろう?…また例の毒虫か…?」
苛付いた様に核心に触れる妖の言葉は既に確信を含んでいて。弥勒も諦めたように、ええ、と頷く。
「…やはり戻った方が良い。雨の冷気を払ってやる事は出来るが、私には毒消しは出来ぬ。人の身は、薬を摂らねば回復せぬのであろう…?」
常に寡黙なこの妖にしては饒舌な言葉。
はっとして弥勒は妖を間近から覗き込み、次いで嬉しそうに笑った。
「やっぱり。心配して下されているのですな…?」
対する妖の反応はやはり顔を背けるという素っ気無いものであったけれど、その頬に微かに上った赤みが法師の言葉を裏付けていた。
「今暫し、このままでいさせては下さいませんか?貴方のお側にいると随分と心が落ち着いて、呼吸さえも楽になるような気がするのです。」
それに貴方がいれば雑魚妖怪に襲われる心配もありませんしね、とふざけるかのように付け加えて、法師が笑う。
物言わぬ妖は、肯定する事も否定することも無く、ただ法師を支える力を強めた。少し眠れ、という音無き言葉を感じ取って、弥勒がゆっくりと瞳を閉じる。
その一種穏やかにも見える表情を見つめながら、妖はそっとその風穴を封じた手に触れた。
「やい、弥勒、どこ行ったんだぁ?」
降りしきっていた小雨はいつの間にか止んで。
半妖の弟が少々乱暴に草を踏み分けながら連れを探しに現れたのは、それから半刻ほど後。
「探し物はこれか、犬夜叉。」
眠りについた法師を予め注意深く地面の乾いた場所に降ろしてやり、弟に声を掛けた。
「殺生丸!?…っててめえ、弥勒に何しやがったんでえ?」
相も変わらず思考が短絡なことだ、と何処か呆れながら、何もしておらぬ、と返す。
「自分の連れの面倒くらい、きちんと見てやれ。…毒消しの薬草でも探してやる事だな。」
それだけを言い残して颯爽と立ち去った兄に、犬夜叉は少しだけ悔しそうに唇を噛んだ。
「…あいつ、随分弥勒の事を気に掛けてやがるじゃねえか。」
小声でそんな事を呟いて。
目が覚めた時、其処は仲間が寝泊りしていたのと同じ家屋の中で、あの美しい大妖はもう私の側にはいなかったけれど。
どうしようもない安堵感に包まれて深い眠りに落ちる前、確かにこの風穴を穿たれた掌に、優しい掌が重ねられた。
あれは、貴方なのですか…?
貴方に触れられた瞬間に、体内に残る虫の毒が、ふわりと浄化された気がしたのですよ。解毒は出来ぬと仰っておいででしたが、もしかしたらその様な能力もお持ちなのかも知れませんなあ…。
それともあれは、盲目的に貴方に惹かれる私にだけ効く、特効薬なのでしょうか。
告げたい言葉は本当に沢山有って。
もどかしいけれど、貴方に会えるのは本当にいつだって運任せだから、満足に告げられた事も無い。
取り敢えず次に貴方に会ったなら、真っ先に礼を申し上げましょう。
何もしては居らぬ、と又そっぽを向いてしまわれるかも知れないけれど。
◇ 後記 ◇
弥殺創作の第三作。当時体調を崩されていた露木様への御見舞に執筆しました。内容もそれに準じたものになっております(笑)この作品は珍しく安産でしたので、遅く書き始めたにも関わらず、仕上がりが第二作『月影の下で』より早かった…。
2003/11/21 Shisui Gagetsu
||
Index ||