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神久夜 -KAGUYA- [01]


「久し振りですね、君が僕を訪ねて来るのも。」

 夜が更けた頃いつの間にか庭先に現れた赤い髪の少年。それにさして驚くことなく、黒衣の青年は穏やかに声を掛けた。

「ああ。…親父があんたの様子を見て来いって五月蝿いんでね。」

 この少年の父親…それは己の兄にあたる人のこと。

「そうでしたか。…弁慶は元気ですと兄上にお伝え願えますか。」

 対する少年の方は短い溜め息を付いて呆れた様な表情を浮べた。

「あんたさあ、俺がもう同じ返事を何回持ち帰ったか分かってる?…両手じゃ足りない回数だよ。」

 確かに自分でも芸の無い応えだとは思う。かつてまるで逃げる様にして兄の元を去って京に出て、修行と称して比叡山に篭った。そうする内に兄嫁が身罷って…いつの頃からかその一人息子が、折に触れてはこうして様子を尋ねてくる様になった。

「済みません、ヒノエ。」

 こう口にすれば、この甥は『身の入っていない謝り方をするなと怒るのであろう。

「帰らないの?」

 単刀直入な問いには曖昧に笑んで見せる。

「何を言っているのですか、ヒノエ。つい先日も、熊野には挨拶に行ったでしょう?」

 弁慶の誤魔化しを敏感に察したのだろう、その言葉には瞬時にヒノエの切り返しが入った。

「”立ち寄った”の間違いだろ。…あんたはどんな時でも熊野の本宮に泊まって行くことはない…あんたが熊野を去った時からね。否定は出来ないと思うけど?」

 否定は、出来ない。出来よう筈も無いでしょう、本宮へ、兄の傍で夜を過ごすなど。かつて秘密裏に目の前の甥とその母御を裏切ってしまった僕が。

 今でも、愛しい。こうして身体の距離を置けばあの熱病の様な感情を鎮めることが出来ると思っていたのに、離れれば離れるほどにあの人が恋しくなる。いつでも僕を包み込んでくれた暖かい腕の中に縋ってしまえたならどんなに良いだろう。



『戻って来る気はないのか…弁慶…?』

 いつも磊落に笑うあの人が、何とも言えない翳りを表情に浮べて言った言葉。

 知っています、兄上。貴方が僕を心配して下さっていることも…ヒノエをとても大事にしていらっしゃることも。でもだからこそ、この想いを抱えたままでは僕は貴方の傍には居られないのだと、そう思った。

『本当はこんな夕暮れに出立させたくは無いが、急ぎだというなら仕方が無い。…気を付けてな。』

 身体は触れ合うことなく、一瞬だけ絡まりあった視線が切なくて。それを振り切る様に弁慶は馬に飛び乗ったのだった。



「…おい、大丈夫かよ、あんた。」

 ふっと己の思考に引き込まれそうになった所でヒノエの声に呼び戻される。背丈も面影も異なる筈なのに、この若き甥の瞳の光は何とその父親に似ていることか。

「大丈夫ですよ、どこか悪い様に見えますか?」

 そう茶化して見せれば小さな溜め息が返って来る。

「細身だけど身体は元気そうだよ、あんたは。…今夜は泊めてくれ。」

 此方の返事を聞きもせずに中へと上がりこんだ少年は、弁慶が後から屋内に入った時には既に、炉辺に掛かっていた鍋を自分で温め直していた。
 それは自分の夕飯の残りだから、空腹ならば何か新たに作りましょうかと声を掛けるも、気を遣うなとひらひらと手を振られる。

「残飯でも、相変わらずあんたの作った飯は悪くないよ。」

 少し捻くれた褒め言葉が嬉しく感じられるのは何故なのだろう。


 ―――此処に泊まるというのなら、もう一式夜具を借りて来なければ。

 元々この住まいは比叡を下りてから知人に借りたものだったので、一人住まいの弁慶には夜具も一式しかない。ヒノエに夜具を貸して自分は床に適当な着物でも敷いて寝ても構わなかったが、夜分の冷え込みが激しいこの季節に自ら風邪を呼び込むのもどうかと思って立ち上がった瞬間に、ヒノエの視線がこちらへ巡って来た。

「どっか、行くの?」

 単に夜具を借りて来るだけだと言うと、ヒノエは呆れた様な顔で此方を見る。

「いいよ、別に。いきなり押しかけたのはこっちだし、俺は床で寝ても平気だからさ。それともそれじゃあ親父に顔向けできないってんなら、あんたと一緒の布団で眠らせてくれればいい。」

 それは、男同士でしかも血族であるならば、何ら違和感の無い言葉。むしろそれに動揺してしまう自分がどうかしているのだと弁慶は内心苦笑いを浮べる。

 ―――今夜は、眠れそうにありませんけどね…。

 そんな予感を胸に自分も炉の傍に寄り、鍋を掻き回していたヒノエの手から杓子を取って中の雑炊を椀についでやったのだった。





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