玉蘭抄-01
人は、何度もの出会いを繰り返して、真にその相手を知っていくのだと思う。
けれど私達の心も、この世の中も、そんなに単純に出来てはいないから―――出会うたびにすれ違い、次の機会を引き寄せられない。
花を揺らし、風が舞い上がる。
もしも時間を遡ることが出来るなら―――還りたいのは、この樹の下、”かれ”が佇んだあの瞬間。
記憶に鮮やかに残る初めての出会いは、桜が咲くにはまだ早い、肌寒い早春の朝。
梅が既に散った王宮の庭院を彩るのは、純白の木蓮で。それを楽しむでもなく、考えに耽りながら佇んでいた清苑の許に、”かれ”は現れたのだ。
「見事な咲き具合ですね。王宮の庭院には、紫の木蓮のみかと思っておりましたが。」
少年が青年へと成長しようとする時特有の、未だ安定せぬ、しかし涼やかな声音に振り返る。
紫は禁色…王家を象徴する色。公子たる自分にわざわざその立場を強調する様な言葉を告げるとは一体どういう意図なのかと、僅かに眉を寄せながら。
目に映ったのは、藍色。紫に次ぐ高貴な色が、声の主の身分を告げていた。そういえば、面立ちがあの三つ子とそれとなく似通っている。藍家の直系には、あの三つ子の他に二人男児が居た筈、と瞬時に思考がめぐった。
「…何用か。」
見た目の年齢的に考えて、四番目の兄弟かと推測する一方で、短い問いのみを返せば、相手は丁寧に膝を折って拱手してみせ、淡い笑みで清苑を見返した。
「兄達より、清苑公子にご挨拶申し上げる様にと申し付かりましたので。藍楸瑛にございます、どうぞお見知りおき下さいますよう。」
その瞳には、権謀術数渦巻く朝廷で良く見る、媚びる様な色は無かった。彼から感じられるのは、真っ直ぐに敬意を示してくる、不快さのない空気のみ。
(藍家の四男は、あの三つ子に比べると随分と御しやすいということか、あるいは柔と見せかけて、その芯は誰よりも強いのか…。)
直接会い見えた印象をそう判じながら、清苑はゆっくりと問いを返す。
「何故、この様な時刻に参った。」
「昼日中にお訪ねして、人の噂にのぼるのは本意ではありません。それに…この時刻に此処を通られる事が多いと聞きました。」
「…見知りおくだけで良いのか。私の許にやって来る人間は、皆口を揃えて傍に仕えさせろと言うものだが。」
「そうお願いするには、私はまだ公子を殆ど知りませぬ。公子とて、初めて会ったばかりの若造を、藍家直系の肩書きのみで御召抱えになりたいとは思われぬでしょう?」
返される答えも、その思考も、全て清苑の心に適うもの。この青年と問答をするのが嫌ではないと感じている自分に、清苑は驚いた。
「違いない。…が、そなたの兄達も同じ考えか?」
「…さあ…兄達の考えは、私如きでは読みきれませぬゆえ。けれど、兄達にはっきり公子のお傍にお仕えする様にと命じられたその時は、何としても公子にこの身を認めて頂く所存でございます。」
兄達の事を考えたその一瞬、藍楸瑛の身を取り巻く空気が変わって。柔らかだった筈のそれに、茨の檻の様な印象が加わる。
「私に仕えるとしたら、それは兄達の為と申すのか。」
「…藍家の為にございます、公子。この身は藍家のもの、藍家の意向を無視することは出来ませんが…叶うなら、お仕えする方にとっても良き近習でありたい。」
先刻までより硬さを増した声で呟かれたその言葉に、清苑は小さく眉を上げた。
「…それは、詭弁だ。大切なものを、同時に幾つもその手で守ることなど、出来はしない。」
それは、清苑が朝廷で思い知った事実だった。八方美人に見える人間ほど、実は全てを裏切っている油断ならぬ相手だと。
互いに、相手の真実を見極めるかのごとく、向かい合う。瞬きすらせ数瞬が過ぎた後、ふっと顔を俯けたのは藍楸瑛の方が先だった。
「失礼を致しました、公子。…もし、いつの日か…この身がお役に立てることがあれば、いつなりとお呼び付けください。」
丁寧に礼を取って、木立ちに溶け込むかの様に背を向ける。去り際の言葉は、少なくとも楸瑛の側からは清苑を仕えるに値する人間として認めた証なのであろうか。
(流石は藍家、と言うべきか…完全には心の内が読みきれなかった。)
それは、人の裏の裏まで読み取って備えとする清苑にしては珍しいこと。久々に興味を惹かれた、と淡く笑んで、彼は頭上の花枝を一枝折り取ったのだった。
最後の言葉の通り、その後藍楸瑛の方から接触をしてくることは無く。
ただ、次の朝議の折に、彼の兄である三つ子達が意味深にそれを仄めかした程度だった。
「清苑様。我らが宝はお気に召しませんでしたか。」
「さあ…?だが、私の傍に置きたいと思うのなら、初めから”私の”宝として育てることだ。”そなたらの”ではなく。」
「はは、これは手厳しい。けれど、いくら清苑公子といえども、あれの全てを差し上げる訳には参りませんね。」
それきり彼らもその話題を持ち出すこと無く、一年ほどが過ぎて。
再び純白の木蓮が花開いた季節、清苑は反逆者の汚名を着せられて囚われたのだ。
(別に権力に執着があるわけではない。ただ、私を慕ってくれた劉輝を、もっと傍で守ってやりたかった。)
薄暗い牢の中でそんな事を思いつつ、ふと思い出す言葉がある。
『…もし、いつの日か…この身がお役に立てることがあれば、いつなりとお呼び付けください。』―――権力を失い、地位をも失いかけている今助けを求めても、あの青年は駆けつけるというのだろうか。そんな事がある筈が無い、と苦笑が洩れた。
(人は、潮流に乗っている時にのみ群がり、運に見放されると途端に離れてゆく生き物だ。)
酷く寒々しい心地がして、ふう、と溜め息をつく。”清苑兄上”、と聞きなれた、小さな呼び声が聞こえたのは丁度その時。
「…その声…劉輝なのか…?」
何故この様なところに居るのだろう、と半信半疑で問い掛ける。声は暗い牢の中で反響し、咄嗟には末の弟がどこに居るのか分からずに、清苑はあたりを見回した。
「此方です、兄上。」
近づいてくる足音が響き、弟が石の階段を下りてくるところなのだと知る。
「何故此処に…?見張りはどうした。」
「連れて来て貰ったのです。名前は教えてくれなかったけど、見張りは…その人が眠らせてしまって。」
眠らせたということは、殺してはいないのだろう。空気には血の匂いも混じっていない。
その人間の意図が善意であるのか、悪意であるのか分からぬまま、清苑はすぐ傍まで近づいてきた弟の手を格子ごしに握った。
「劉輝。お前に会えて嬉しいけれど、こんな所へ来てはいけない。お前にまで害が及んでは大変だろう?」
「でも私は、兄上にお会いしたかったのです。兄上がいらっしゃらないなら、城になど住めなくてもいい。」
「そんなことを言っては駄目だよ、劉輝。私は…多分長い間貴陽を離れることになるだろうけど、心はいつでもお前の傍に居るから。だから…だから、自分の人生を大切にしておくれ。」
格子にしがみついてすすり泣きを続ける劉輝を何とか宥めようと言葉を次ぐうちに、ひそやかな、けれど少し急ぎ気味の足音が石段を降りて来て。
「劉輝様。そろそろお時間です。」
その、声が。清苑の記憶の中の一場面と合致する。まさか、と思うと同時に、暗闇の中へ目をこらしていた。
「そなた…何のつもりだ、藍楸瑛。」
問い詰める声は、少し震えていたかもしれない。此処に現れる筈もないと思っていた、遠い絆の縁の到来に。
「お引き合わせ出来るのは、今宵が最後でございましたゆえ。」
「藍家の為か。私は牢に囚われ、何の礼も出来ぬ身だが?」
「…そのような…。さ、劉輝様、どうぞお早く。」
内心の動揺を隠そうと故意に出した冷めた言葉に、近づいて来た相手の瞳が少し傷ついた様に揺れた。
もしや藍家は、この末の弟を傀儡として擁立するつもりかと危ぶみもしたが、今の情勢や、弟の立場を鑑みればその可能性も低い、と思い直す。
「劉輝を頼む。無事に部屋まで、送り届けてやって欲しい。」
「…はい、必ず。」
清苑の頼みごとに応、と頷いた時の泣きそうな笑顔がどうしようもなく優しくて。藍家の思惑に乗りたくないと思うばかりに、藍楸瑛という人間をもっと知ろうとしなかった過去を、清苑は悔いた。
「嫌です、兄上。劉輝も兄上と一緒に行きます。」
動こうとしない末の弟の口許に、藍楸瑛がいつの間にか取り出した白い布を当て、途端にぐったりと気を失ってしまった幼子をそっと抱きとめる。
「…どうぞご無事で、公子。」
そんな言葉と共に、牢の中に護身用の短刀をそっと差し込んで。反射的に受け取った清苑と、指の先が触れ合った。
ここがこんな場所でなければ、その細い滑らかな指先を握り締め、引き止めていたかも知れない。否、牢に入ることなくば、彼と再会することも無かったか。
「混乱に乗じてお命を狙う輩も居るやも知れませぬ。この様な小さな刃でも、無いよりは…」
「…懐に入れておく。」
ぎこちないやり取りの後、二人の距離はゆっくりと離れて。声になるかならぬかの別れの挨拶をしてから、劉輝を抱き上げた楸瑛は、静かに牢を去ってゆく。
再び会い見えることはあるのだろうか。きっと”清苑”として再会することはもう二度とない―――そんな、諦めにも似た確信があった。
…それでも、その時が来たのなら。どうか自分に気付いて欲しいと、祈るように願う。
牢の中に隔離されて、らしくなく心弱い気持ちになっていたからなのか、それとも藍楸瑛という若者自体に執着を感じ始めたからなのか、心の源は清苑自身も未だ判じきれぬままだったけれど。
果たして、流罪に処せられ城を出てから、清苑が命を狙われることは日常茶飯事で。懐に隠し持った短刀の御蔭で、何度命拾いをしたか分からない。罪人が大っぴらに長刀を持ち歩く訳にはいかなかった。
そして、その短刀の柄の部分には、藍家直紋の彫り物が入っていて。本当にどうしようも無くなるまでは決して使うまいと心に決めていたが、手形と同等の価値を持つそれは、かの青年からの精一杯の餞別だったのだろうか。
茶州で食べ物や寝場所にも困る生活を何ヶ月も続けるうち、燕青と出会って、やがて紅邵可一家に拾われた。静蘭という新たな名を与えられ、公子時代の昏い記憶は時間と共に風化して。邵可や秀麗、そして薔薇姫が与えてくれる温かくて穏やかな感情のみが心の内を満たし始める。
ほんの時折、手入れの為に件の短刀を取り出す時のみ、静蘭は過去の幻を探した。
この短刀の元の持ち主は今、どうしているのか。”国試を優秀な成績で通過し、官吏として働き始めるも、武官に転向し、将軍位まで上り詰めた名門藍家の若君””花街で藍様と持て囃される色男”―――市井の人々の口から華やかな噂を聞くことはあれど、同じ貴陽に暮らしても、未だ直接に再会を果たしたことは無い。
否、今や無位無官の静蘭と比べて、かの青年がある地位は雲の上も同然で、二人の間に接点が無いのは当たり前の話だったが。
「静蘭?恋しい目をしているね。…その短剣に、何か思い出があるのかな。そういえば、肌身離さずいつも大切にしているようだし。」
いつの間にか傍へやって来ていた邵可にそんな風に気遣われて、静蘭は少し困った顔で微笑む。
「大したことでは…でも、私の過去と今を繋ぐ、唯一の品なんです。」
城から持ち出して来たものは、他には何一つ無い。けれど、短剣一振りがあの日のことを、ひいては末の弟と、かの藍楸瑛のことをも思い出させてくれる。
「そうか。過去を大切に思えるということは、いいことだよ。過去があるから今の君があるんだからね。」
穏やかに微笑んだ邵可が、そこでふと表情を改めて向き直った。
「その、過去が少し関わる可能性もあるんだが。今日、霄太師がこの邸に来るよ。何でも秀麗と君に頼みごとがあるとかでね。私は悪い話ではないと思ったから、お受けしたんだけれど。」
短剣の刃を研ぐ手が止まる。
告げられた内容は、取りも直さず、王宮と関わる機会が巡って来るということ。もしかしたら、今は国王として即位した劉輝とも…将軍位にあるという”彼”とも、会うことが叶うかもしれぬということだ。
「お嬢様にお知らせしておきます。」
出来るだけ普段通りにそう返す反面、静蘭は心の内に、自分でも制御出来ない興奮が湧き起こっているのを感じていた。
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