比翼翔 ◇ 闇に咲きし徒華【後編】
『黎深様、邵可様がすぐにお越し下さる様にと…』
影からそんな伝言を受けた時には、ぎょっとした。兄か、大切な姪に何か凶事でもあったのかと思った。黎深の側から煩いくらい兄に付き纏うことはあれど、兄の方から呼び出しがかかることなど、滅多にありはしなかったから。
けれど、影に案内されて駆けつけた場所で、邵可が苦しげに視線を向けている相手は、黎深の思いもよらぬ人物で、行われていた行為はとんでもない代物だった。
「あれは…藍家の…?」
呆然と呟く。自分の同期だった藍家の三つ子の弟…兄達よりも細面ではあれど、似通った面影がある。絳攸と同時に国試に及第したことも、随分親しく付き合っていることも知っていたが、まさかこんな形でその姿を見ることになろうとは思ってもみなかった。
「私達の手落ちだ、黎深。彼らは最初、絳攸殿に暴行を加えようとして…藍家の影から報告を受けた楸瑛殿が、自分が身代わりになって彼を逃がしたんだそうだよ。さっき、絳攸殿が真っ青な顔をして府庫へ助けを求めてきた。」
ならば何故兄が、行為を止めもせずここで二の足を踏んでいるのかと考えて、黎深ははっとする。
「楸瑛殿は初めからこうなる事を覚悟していたんだろう。未遂で無理矢理捕まえる事は簡単だが、再び同じことが起こらぬ保障はない。君や絳攸殿の体面に、僅かなりとも傷がつき、君はともかく絳攸殿は今以上に朝廷に居づらくなる。逆に自分を餌にして逃げ場の無い証拠を付き付ければ、犯人達は二度と日の目を見られないし、傷付くのは自分だけ…藍家はそんな事如きでは欠片ほどにも揺るがない、と。」
抑えた声でそう説明を寄越した邵可は、そこでじっと黎深を見つめた。
「後を頼めるかい、黎深。”私”が出て行くと、色々と不味いだろう?それに、証人としての価値は君の方が高い。」
「…はい、兄上。絳攸を、お願いします。」
そう言葉を交わすと、邵可はその来し方を思わせる身のこなしで闇の奥へと消えた。
「”外”に控えていろ。私が呼ぶまで、”中”を見るな。」
影にそう命じて、黎深は独りその場に残る。
目は、逸らせなかった。自分や紅家の影が、その瞬間に目を光らせていたなら、あるいは幼い頃から絳攸に武芸を叩き込んでいたなら、防げた筈の事態。自分自身に、無性に苛立ちがつのる。
こんな感覚は、久方ぶりだった。そう、自分の力が及ばずに兄の邵可が紅州を去った時と、妻を亡くした兄がその日の暮らしにも困るほどの貧乏にあえいでいると知ったあの時以来。
漸く長い狂宴が終わった時、黎深の掌には、自らの爪の痕がくっきりと残っていた。
楸瑛がぐったりと重い身体に意識を取り戻した時、その身体は既に清められ、新しい衣服に着替えさせられていて。
(…ここは…?あの後、誰かが運んで世話をしてくれたということか…?あの男達の誰かがここまでするとは思えないし、意図した通りの結果を引き出せたと思っていいのかな。)
それは即ち、完全な加害者と被害者として第三者に発見されるということ。
身を起こそうとすれば、やはりというべきか下半身に鈍い痛みが走る。思わず顔をしかめて寝台へ逆戻りした楸瑛だったが、自分の首の下に枕の様に差し伸べられた腕の存在にぎょっとした。
「…目が覚めたのか、藍楸瑛。」
続いて背後からかけられたのは、かなり不機嫌そうな、聞き慣れぬ声。恐る恐る顔を振り向かせれば、全てを見通すかの様にじっと見つめてくる視線にぶつかる。
(この目の感じ…時々龍蓮がする目に少し似ている。…この方の目は、龍蓮のそれよりずっと鋭くて、少し恐ろしいけれど。)
その視線に囚われてそんな事を思ってから、楸瑛は漸く腕枕の主が目の前の人物であることに思い至った。
「っ…申し訳ございません、色々とお世話を…。」
反射的に身を起こして礼を取ろうとするが、身体の痛みを堪えるだけでも大変で、無様に息が切れる。
「急に動くからだ、愚か者。」
ぶっきらぼうにそう咎めた彼は、それでも柔らかく楸瑛の背を支えてくれた。水差しから水を注いで渡された銀の器には、覚えのある家紋―――桐竹鳳麟。
「…紅家のお方…なのですか。」
はっとして思わず呟いた楸瑛に、目の前の男は小さく眉を寄せて。
「会うのは初めてゆえ、無理はないか。…私の名は紅黎深。絳攸の養い親だ。」
告げられた言葉に、楸瑛の顔からさっと血の気が引いていく。
(…意識を失っていた私を休ませ、後始末までして下さったということは、あそこで起きた出来事を全て知られてしまったということ…よりによって絳攸の義父上に。)
四男とはいえ、藍家直系ともあろうものが情けないと思われただろうか。ご自分の養い子と友人として付き合うには値しない人間だと。
暴漢達に貪られていた間、涙の一つも流さなかった楸瑛の頬を、初めてすうっと透明な雫が伝い落ちた。恐らくは流した本人すら無意識のうちに。
「…何を泣く。ただ名乗っただけだ。」
少し焦った様な呟きが聞こえ、次いで目の前の人に強い力で頭を抱き寄せられる。
「あの三つ子とあまりに違って調子が狂うな。…こんなに傷ついているくせに、自身の身を顧ず無茶をする。」
慈しむように髪を梳かれ、はっとして顔を上げたところで、唇で涙の痕を拭われた。優しい感触に戸惑いつつも動けずにいる楸瑛に、黎深はそっと抱きしめる腕の力を強める。
「後の事は案ずるな…これ以上、もう決して傷つかせはせぬ。」
その言葉に、そしてその抱擁に、大きな安らぎを与えられた気がした。こんな経緯で初めて顔を合わせた自分は、親友の義父である人に優しく扱われる要素なぞ、一つも無いと思っていたのに。
「このまま暫く休んで行け。絳攸がそれなりには処理するだろうが、府庫に山積みになっている雑用が気になるなら、此処へ運ばせる。いざとなれば、私自ら手伝ってやっても良い。…身体を動かすことすら辛い筈だ。」
命令口調の言葉には、不器用な気遣いが溢れている。けれど流石にそこまでして頂くわけには、と反じかけた楸瑛だったが、黎深は有無を言わさずその身体を再び寝台へと押し込んだ。勿論、身体に痛みがはしらぬ様に、器用に支えてやりながら。
「この私が、珍しく他人を守ってやりたいなんぞと仏心を出しているのだ。黙って親切を受けておけ。」
それだけ言い残して照れ隠しの如くふい、と背を向けた彼に、楸瑛は追い縋るように声をかける。
「ならば…一つだけ、お尋ねしても?」
「…なんだ。」
「あそこで起きたことを、絳攸は…」
知ってしまったのかと問いを続ける前に、黎深が否、と答えを投げてよこした。
「あれは知らぬ、…最後まではな。」
最後までは、ということは、途中経過はやはり予想がついているということか。切なげに眼差しを伏せた楸瑛に、黎深は僅かに眉を寄せた。
「案ぜずとも、あれのお前に対する好意や憧憬が失せることはない。たとえいつの日か、あれが真実を知ったとしても、だ。」
掛けた言の葉は、気休めではない。目の前の若者は、未だ不安そうに貌を曇らせているけれど。
大きな溜め息を一つついて、黎深は先を続けた。
「…仕方がないな。なるべく早くあれの前に平気そうな姿を見せねば気が気でないというのなら、府庫へ連れて行ってやる。…ただし、府庫までは私が運ぶぞ。そんな状態のお前を、長々と歩かせられるか。」
え、と驚くのと、掛け布がさっと取り去られ、ふわりと抱き上げられるのが同時だ。
「案ずるな。影の道で誰ぞに見られることはない。」
そう言ってずんずん歩いてゆく黎深の肩に、楸瑛はそっと頭を預けたのだった。
一方、絳攸の方はといえば。親友の安否が気にかかりつつも、彼が戻って来た時に、せめて机案の上の書翰を減らしておいてやるくらいしか出来ることが思い付かず、気持ちばかりが空回りしていた。
「絳攸殿。大丈夫だよ…あとは黎深が、悪いようにはしない筈だ。」
絳攸が助けを求めてすぐ、いつになく厳しい表情を浮かべて府庫を飛び出した邵可が、戻って来てから開口一番に釘を差した言葉がある。
”楸瑛殿が戻ってきた時、何があったのかと追求してはいけないよ。”
それはつまり、尋ねることが更に彼の傷口を抉る結果になるということ…それほどに、彼が自分の代わりに受けた傷は深いということ。
(どうしたら、償えるんだ。)
いつも守られてばかりの自分が情けなかった。かけがえのない大切なひとだから、傷ついて欲しくないと願う気持ちは自分とて同じなのに。
無事な顔が見たい―――でも、顔を合わせたその瞬間、彼にどんな言葉を掛けていいのか分からなかった。
「なんだ、まだ書翰がこんなに残っているのか。」
「…黎深様…!」
ぐるぐると悩む思考に不意に割り込んで来たのは、自分にとって絶対的な存在たる養い親の声。
はっとして顔を上げれば、悠然と佇む養い親の隣には、案じ続けた相手の姿がある。いつもと少し違った印象を受けるのは、衣服が改められているからという理由のみではなく、普段きっちりと結い上げられている髪が、今はまっすぐ背に流れ落ちているからか。
「こやつと二人で、もっとあの馬鹿共の仕置きを楽しみたかったが、お前に返してやるほかないようだな、絳攸。」
義父がこんなことを言うということは、それなりに無事に済んだのだ、と絳攸は少しほっとした。
「…心配をかけたね、絳攸。」
「いや、その…大丈夫だったのか?」
「…うん。」
楸瑛とのやりとりは、少しぎこちなくて。沈黙が落ちたところで、書翰をばらばらと眺めていた黎深が、苛立たしげにそれを爪の先ではじいた。
「まったく…この書翰の殆どはごみだな。押し付けに来た奴に、残さずたたき返してやりたいところだ。」
進士という立場上、そういうわけにもいかないのだけれど、不平も不満も言い放題な高位にある黎深が代わりに怒ってくれたようで、若い二人は顔を見合わせて少し笑った。
そんな折も折、またしても二人に自分の仕事を大量に押し付けに来た官吏が府庫の扉をくぐって。
「藍進士、李進士、明朝までに…」
言いかけた言葉が、不自然に途中で止まる。言わずもがな、彼が此処で遭遇する予定の無かった高官の絶対零度の眼差しに射殺されたのだ。
「ほお、私の府庫での一時を邪魔しに来るとはいい度胸だな。抱えている書翰は、勿論それに見合うものなのだろうな?」
含み笑いすら聞こえてきそうな意地悪い声音に、一転して被害者となった官吏は震え上がる。
「見せてみろ。」
「…え?」
「私に見せてみろと言っている。後輩の手本にならんような書翰なら、進士達に目を通させる意味などない。」
「は、しかしながらこれは、私のせいではなく、上司から渡して来いと命じられたものでありまして…」
「どうでもいい。今即刻その首を切られたくなければ、とっとと突き出せ。私は気が短い。」
「はっ…はいっ…」
ざっと小気味良い音を立てて書翰を開くと、黎深は机案の上に置かれていた筆を手に取った。
「絳攸。朱墨を持って来い。藍楸瑛、お前はそこに腰掛けて、こやつの阿呆面を眺めるも良し、下らん書翰の片付けに掛かるも良し。」
そんなことを口にして、次々と書翰を机案に広げてゆく。絳攸が邵可から朱墨を分けて貰って戻って来ると、黎深は筆にそれをたっぷりとつけた。
続いて為されたのが、とんでもない速さでの添削である。見る間に真っ赤に染まってゆく書翰の数々に、官吏は魂が抜けた様に真っ青になった。
「ふん、恥かしげもなく良くこんな書翰を押し付けに来れたものだな。そのまま使える部分が欠片もない。さっさと持って帰って、己でやり直せ。…ああ、朱墨で添削してやったから、一から書き直ししか手はないな。まあ、随分と文字も汚かった様子ゆえ、丁度良かろう。くっくっく…」
楽しげに笑う黎深の瞳の奥には、冷たい炎がちらついていて。その直撃を諸に被ったその官吏は、慌てて書翰をかき集めて逃げ出して行く。
一方、筆を置いた黎深は、何故か立ち上がる事無くその場に留まった。
「あ、あの…?」
「お仕事は、宜しいのですか?」
戸惑った様子の若者二人の問いにも、くつくつと笑うばかり。
「私は吏部尚書だ。進士の仕事振りを観察するのも、職務の一つであろう。」
そんな会話を交わす間に、仕事を押し付けにやって来た二人目の官吏が府庫にやって来て。まさに飛んで火に入る夏の虫の如く、一人目同様真っ青に燃え尽きながら去っていったのであった。
(もしかしなくても、あそこに座って官吏達を追い返すことで、私達の仕事がこれ以上増えないように気遣ってくださっている…?)
人の心の機微に聡い楸瑛であればこそ、一見気まぐれで唯我独尊な黎深の行動がそんな物ではないことに即時に気付く。
(心遣いを無駄には出来ない。早く今ある書翰を片付けて、屋敷へ戻って休めということなのだろう。)
筆を動かす手が、力を得たように早くなった。身体の痛みは相変わらずあれど、今はもう、さして気にならない。
絳攸が居て、そしてその養い親たる黎深の言外の優しさに触れて―――今この瞬間が、どうしようもなく幸せに思えた。
黎深がまるで門番の如く官吏達を追い返した御蔭で、机案の上に山積みになっていた書翰は一刻ほどで綺麗に片付いた。
「片付いたのか。ならば、さっさと帰るぞ。」
「そうだね、その方がいい。折角だから、私もこれで府庫を閉めよう。」
立ち上がった黎深の言葉を後押しするように、管理室から出て来た邵可がいつもの笑顔でそんな事を言う。府庫を閉めるということは即ち、官吏達が幾ら大挙して押しかけようとも、明日の朝まで押し付ける書翰を放置していくことは不可能であるということだ。尤も、黎深が追い返した官吏達の様子を目にしたなら、暫くは吏部尚書が居るかもしれない府庫に近付くことすら出来ない人間が殆どだろうけれど。
「兄上!ならば是非、私の軒をお使い下さい。」
嬉しそうに破顔した黎深は、次いでさり気なく楸瑛が立ち上がるのに手を貸す。
「お前もだ、藍楸瑛。…送ってやる。」
世にも珍しい養い親の優しい言葉に瞳を見開いたのが絳攸、”うん、それがいいね”と鷹揚に笑んだのが邵可だ。
「兄君達が藍州におられる分、是非この貴陽では私達を頼って欲しい。私はともかく、黎深にはそれなりの地位も力もあるから。」
「…ふん、弟を一人でこんな都へ出すなど、あの鬼畜どもの気が知れん。」
言い方は真逆でも、二人の気遣いは温かく心の内に染み入って。
「恐れ入ります。」
柔らかく笑んで礼を言った楸瑛に、四人は連れ立って軒寄せへの道を歩き始めたのだった。
『こ、紅尚書が…紅尚書が、あのいつもの冷笑ではない笑いを浮かべているっ…!』
『馬鹿、目を合わすなっ!とばっちり喰うだろう!』
…道すがら、運悪く行き合った官吏達を、一様に唸らせながら。
流石に彩七家筆頭の片割れだけあって、紅家の軒は広い。四人一気に乗ろうと思えば乗れぬことはないが、黎深はあえて二台の軒を用意させた。
「兄上に狭苦しい思いなどさせられんだろう。」
表向きの理由を、至極当然といった顔で彼はそう告げたが、本意は別のところにある。
(平気そうに振舞っているが、藍楸瑛はいい加減もう限界だな。それでも、絳攸のいる所では、決して辛さを見せんだろう。)
そんな事を思いつつ、黎深は養い子に前の一台を指し示した。
「兄上をお送りしろ、絳攸。不本意なりに紅家当主として、ついでに藍家に言っておきたい事もあるゆえ、藍楸瑛は私が送っていく。」
え、と驚いた絳攸の背を、そのままぐいぐいと軒の方へ押しやる。
「安心しろ、別にあれを苛めはせん。黙って私の言うことを聞いて、今日は兄上と帰れ。」
養い子にしか届かぬ音でそう言い聞かせれば、何かを察したのか、絳攸は急に抗うのをやめて。
「―――わかりました。」
そう呟く心中は複雑だった。
兄一家のこと以外まるで眼中にない筈の養い親が、こうまでこだわって気を遣うということ。そして何の意図か、今この瞬間、自分と楸瑛を引き離したがっていること。それは裏を返せば、取りも直さず、自分の知らされていない何かがあったということだ。恐らくは、”あの”時に。
(それなりに無事に済んだのかも知れないだなんて、早とちりもいいところだ。)
思わず目線で楸瑛の様子を伺うと、いつになくぼんやりと此方を見ている楸瑛と目が合った。
底の見えない、哀しい瞳…それがまるで別れを告げている様に感じられて、どうしようもなく不安になる。
「…楸瑛!」
気がついた時には、王宮の壁に反響しそうなほどに大きな音で、その名を叫んでいて。驚きに見開かれた楸瑛の瞳に、漸く己の声量の場違いさに気付いた。
「また…明日、会えるよな?」
一気に小さくなった声で呟いた一言に、楸瑛は泣きそうな、でも幸せそうな表情で笑う。それを肯定ととって良いのか、それとも否定ととるべきなのか分からぬまま、絳攸は邵可にそっと腕を引かれたのだった。
二人の影が軒の内に隠れ、その軒が最初の角を曲がって姿を消す。立ち尽くしたままそれを見守っていた楸瑛は、次の瞬間、前触れ無く強い力で抱き上げられた。
「…っ…!?」
「絳攸と明日また会ってやる気があるなら、さっさと身体を癒すことだ。それとも、痩せ我慢が趣味なのか?」
丁寧に下ろされたのは、もう一台の軒の中。続いて乗り込んできた黎深が、抱き寄せるような姿勢で身を支えてくれる。
「…少し眠れ。軒の揺れが辛いだろう。」
ぶっきらぼうに命じる低い声と共に、衣越しに伝わる温もりに包まれて、その言葉に従うほかにどうじて良いのか分からなかった。
「何故…こうまでして下さるのですか…?」
「…その言葉、そっくりそのままお前に返すぞ。自らの係累ですらない人間を気に掛ける理由など、好意を抱いたからに決まっているだろう。」
思わず呟くように口にした問いには、何とも直球な言葉が返ってくる。
こんなにはっきりと”好意”だなどと口にされたのは初めてで、咄嗟に動揺を隠せない。
「…なんだ。誰ぞに愛しまれるのには慣れておらぬのか。」
楸瑛が思わず赤くなったのに気付いたのだろう、黎深はそんな呟きで追い討ちをかけてきた。
「心など言葉に表れた部分だけではないが、くだらぬ男に易々と身を許すな。身を許して良いのは、全身全霊でお前を愛しむ者にだけだ。」
叱るようにそう締めくくり、”さっさと寝ろ”と黎深はそれきり口を閉じてしまう。揺らぐことの無い腕の力にしっかりと抱き込まれ、楸瑛はいつの間にか眠りの淵へと意識を漂わせていた。
穏やかな軒の揺れがふと途切れ、丁寧に抱き上げられて運ばれる感覚を遠くに感じる。
「…楸瑛様!?一体何が…」
「眠っているだけだ。静かにしろ。」
「あの、ですが紅家の方に主の寝室まで運んで頂くわけには…。あとは私どもが致しますので…」
「構わんと言っている。下がっていろ。」
小さな諍いの声も、眠りを完全にさますには至らなくて。
周囲がまた静かになり、抱いて運んでくれる心地良い腕の感触が、背を支える寝台のそれに置き換わった時、漸く楸瑛の意識は覚醒へと近付いた。
唇にそっと押し当てられる、柔らかい感触。次いで濡れた感触をその場所に与え、ちろちろと歯列をなぞって…最後に少し強く吸ってから、名残惜しげに離れてゆく、それ。
その温もりを追うように、ゆっくりと瞼を押し上げると、熱の篭った瞳で見つめてくる黎深と視線が絡んだ。
息をすることすら忘れるほどの濃密な一瞬が過ぎた後、黎深はふっとその視線の呪縛を解いて。
「身体をいとえ。…明日の朝にでも、絳攸を見舞いに寄越す。」
それだけを告げると、楸瑛の返事を待つ事無く、くるりと踵を返す。
その後姿を呆然と見送って、楸瑛は指でそっと己の唇に触れた。
(接吻―――だったよね、今の。)
騒がしくなった鼓動が、落ち着いてくれない。その感触が嫌だったのではなく、むしろもっと欲しいと思ってしまった。続きを、望んでしまった。
(どうしよう。絳攸の、義父君なのに。)
きっと、接吻した本人の方は、深い意味など無かったのかもしれないというのに、された側の心の内には、制御出来ない生々しい感情が渦巻いてゆく。
いっそそれを、単なる身体の生理的な反応と考えてしまえるなら、楽なのだろうけれど。
(分からない…自分が一番、わからないよ。)
何かが、確実に変化してゆく―――そんな明日が来るのが、無性に恐ろしく感じられた。
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