月香華-10-
「…っおい、楸瑛っ!昨日散々人を心配させておいて、今日も夕方まで出て来ないとはどういうつもりだ。御蔭で執務が山積みな上に、主上は上の空、何の因果か黎深様も雲隠れだ!」
参内するなり、例によって例の如く方向音痴ぶりを発揮していた絳攸と偶然にも行き会って。そんな小言の中にも親友の不器用な優しさを感じて嬉しくなる。
「心配をかけて済まなかったね、絳攸。私なら、もう大丈夫だから…主上の執務の手伝いは、これからやらせて貰うよ。…紅尚書も、そろそろ吏部にいらっしゃるんじゃないかな。」
順々に絳攸の言葉に答えてゆくと、”お前が何故義父上の居場所を知っている”と絳攸は不思議そうな顔だ。
「昨晩、うちの兄達と飲み比べをなさってね…藍家にお泊めするからと、使いの者を送っただろう?」
「何?…ああ、そういえば…百合姫様がその知らせを聞いて、楽しそうにころころ笑っておられた。」
本当はそれだけではないのだが、楸瑛は穏やかな顔でそう説明してやれば、絳攸にも何事か思い当たることがあるようで。”しかし、藍家の三つ子当主が貴陽に来ていたのか”、と驚いた表情だ。
「済まない、龍蓮ほどではないけど、兄達も神出鬼没でね。…でも今朝、もう藍州へ帰って行ったよ。」
それでも結局、兄達は楸瑛と黎深の間を軽く掻き回すに留めて藍州へ引き上げた。次に顔を合わせた時、どんな風にからかわれるかは分からないけれど、根本的なところでは非常に弟想いな兄達なのだ。
「黎深様が登庁なさるなら、俺は吏部へ行かねばならん。全ての処理が終わっているのに、長官印だけが足りない書類が山積みなんだ。」
そんな事を言いつつ進むべき方角に迷っているらしい絳攸に、通り道だから一緒に行こう、とさり気なく道案内をかって出る。楸瑛が居なかった間、この親友が恐らく大半の時間を道に迷って過ごしていたであろうことを考えると、今日はその方向音痴ぶりをからかう気にはなれなかった。
こっちだよ、と腕に手を掛けて道を指し示したその時。
「待て。」
この場所で聞くには意外な声が、かなりの不機嫌さを纏って二人の足を止める。
「この私に用事か、絳攸。相変わらずとんでもない方向音痴だな。己の部署へ戻るのに、一々楸瑛の手を煩わせるな。」
絳攸にそんな嫌味を言ったかと思うと、次には楸瑛の方にくるりと顔を向けて。
「お前もお前だ。今日くらいおとなしく一日中休んでいれば良いものを…それに、私とは別々に登城するといって聞かなかった。それなのに絳攸とは…」
微妙に目をそらしながら、歯切れ悪くぶつぶつと呟く内容は、絳攸にとっては不審極まりないものだ。それでも、黎深を良く知る彼から見れば、この義父が子供の様に拗ねていることは明白で。
(昨日は楸瑛にあんなに険悪な空気を漂わせておられたのに、一夜にして一体何があったんだ。単に酒の飲み比べをして、酔い潰れて藍家にお泊りになっただけじゃなかったのか?…いや、そもそも何年も交際なぞなかった藍家に黎深様がおいでになったこと自体が奇妙だが。)
絳攸がそんな風に思考を巡らせる傍ら、そんなにあからさまに言われては絳攸に自分達の関係がばれてしまう、と楸瑛は気が気でない。第一、こんな人通りの多い外朝では、通りすがりの宮廷人の口の端に上がったとて何の不思議もないのだ。
「こ…絳攸。紅尚書もおいでになった事だし、一緒に吏部へ行ったらいい。私は先に主上の所へ行っているから。」
自分の顔が確実に赤くなっているのを自覚しつつも、そんな顔を見せたくなくて、絳攸にそう言い残して踵を返す。慌て過ぎて黎深に略礼を取ることすら忘れていたと気付いたのは、主上の執務室がある区画に駆け込んだ後だ。
(…どうしよう、きっとお腹立ちだろう。でも、あのままあそこに居たら…)
青くなったり赤くなったりを繰り返しつつ、目的の部屋の扉を叩けば、”絳攸か…?”と力尽きた感じの劉輝の声がした。
「私です、主上。遅くなって申し訳ありません。…お手伝いしますよ。」
「楸瑛!…昨日の今日だったゆえ、心配したぞ。紅尚書の不機嫌目線は、余でも恐ろしいからな。」
嬉しそうに迎えてくれた主に楸瑛も僅かに頬を緩ませたが、間を置かずに出た黎深の話題に、つい俯いてしまう。
「…でも、今日の楸瑛は何だか明るい顔をしている。ちょっとした困りごとはあるのかも知れないが、でも幸せそうな顔だ。余も嬉しいぞ。…うん、何だかやる気が出てきた。さっさと書類を終わらせて、秀麗に文でも書こう。」
にこにことそう言う劉輝に、楸瑛も気分を切り替えて机案につこうとしたその時。来訪の先触れも無しに、扉がばたんと開かれた。戸口に仁王立ちになっているのは、鮮やかな紅を纏う人影。
「何事なのだ?…って、噂をすれば紅尚書!いや、確かに秀麗に文を書こうとは言ったが、やましい気持ちは全く無いぞ!?」
てっきり自分の言葉を聞きとがめて黎深が乱入して来たと思った劉輝だったが、黎深がつかつかと歩み寄る先は、国王の傍らに侍る青年の方だ。
「…っ、れ、黎深様っ…!」
驚きのあまり絶句していた楸瑛が、漸く相手の名を呼んだ瞬間、噛み付く様にその唇は塞がれていた。ここが主上の執務室の中だとか、その主上が目を丸くしてこの光景を見ているだとか、黎深にとってはそんな事は些細なことで。容赦ない激しく深い口付けに、楸瑛はぐったりと身体の力を失ってしまう。
「私を置き去りにして馬鹿王のところへ逃げ込んだ罰だ。まあ、お前が誰のものかはっきりと披露出来て、一石二鳥だな。」
にやりと意地悪く笑みつつ楸瑛を見下ろし、劉輝の方を睨めつける黎深は、先刻とは対照的に勝ち誇るように上機嫌で。
「…び、びっくりなのだ…。でも、楸瑛はちょっと恋人の趣味が悪いと思うのだ…。」
呆気に取られてぼそりとそう呟いた劉輝だったが、”何か?”と問い返す黎深の威圧的な目線にぎろりと睨まれて、慌ててその口を閉じた。
「さて。洟垂れ小僧の牽制は出来たが、お前が逃げ出したゆえ、絳攸に我々のことを告げそこねてしまった。今夜の予定は空けておけ、邸に連れ帰ってあれと百合に引き合わせる。…ああ、勿論執務を長引かせて終業後までこれを引き止めるなどということはなさらぬでしょうね、主上?」
とんでもない事を如何にも決定事項というかの様に告げて、楸瑛の返事を待つことはせずに劉輝に圧力を掛けると、もう用はないとばかりに部屋を出て行ってしまう。
「だ、大丈夫か、楸瑛?…余は何だかまだ、悪い夢でも見ているような気がするぞ。」
放心しかけている楸瑛を助け起こしてから、劉輝は青くなりつつ山積みの書類に取り掛かったのだった。
そして、絳攸の方はというと。
義父が現れた途端明らかに様子がおかしくなった腐れ縁に置いて行かれてから、再び宮城の中を彷徨っていた。養父かつ上司の黎深はと言えば、楸瑛の背を見送って暫く彫像の様に固まった後、脇目も振らず恐ろしい勢いでその後を追って行ってしまったのだ。
(本当に、一体何なんだ。…そして此処は、何処なんだっ!)
ずんずんと歩いて行くうちに、吏部所属の官吏の姿を見付け、慌ててその後を追いかける。道に迷っているだなんて、万が一にも思われないように、あくまでもさり気なく。
そうして、やっとの思いで辿り着いた吏部には。
「ふん、絳攸、たっぷり道に迷ったか?…ああ、今夜はとっとと仕事を終わらせて、真っ直ぐ邸に戻って来い。ついでに藍楸瑛を連れて来るがいい。私が直々に迎えに行ってやりたいところだが、生憎私にも心の準備というものがある上に、あれが恥ずかしがって大人しくついて来そうにないからな。ふふふふふ…」
尚書室ではなく、一般の官吏が仕事をする場所に悠然と腰を下ろして、迫力のあるにやけ方をしている養い親の姿があった。
「紅尚書に一体何があったんですか、李侍郎!貴方がおいでになる前に、突然物凄い勢いで書類を捌いて、全て終わらせてしまってからずっとあの調子なんですよ。」
「大体左羽林軍の藍将軍だなんて…あくまで李侍郎のご親友で、あの方には殆ど関わりの無さそうな方なのに…」
「冷気を撒き散らしておられないのはせめてもの救いですが、あれはその、何というか…」
”気色悪い”、とはっきり音にされなかった言葉の続きは、その場に居た全ての官吏の頭に以心伝心でひらめく。
「お、俺には分からん。何でもいいから、早く各自の仕事を終わらせろ。」
そう、『氷の長官』の機嫌は、ころころと変わるのだ。養い親と腐れ縁の関係の謎は取り敢えず脇においておいて、絳攸は猛然と仕事に取り掛かった。
もし万が一仕事が長引いて楸瑛を邸へ連れて行くのが遅くなりでもしたら、あるいは彼が帰宅するまでに捕まえられないという失態を犯しでもしたら、黎深が半端でなく臍を曲げるであろうことは想像に難くない。
結局、道に迷っている時間を相殺するかの如き奮闘の末。絳攸は何とか定時の半刻前に、机案の上の書類を全て片付けることに成功した。
道に迷わずに主上の執務室まで辿り着けるかどうかが最後の難関だが、何故だかは分からないが、普段なら半刻もあれば楸瑛の方から絳攸の姿を見つけ出してくれる。
「それでは黎深様、私は主上の許へ行って参ります。本日は吏部にはもう戻りませんが、他に何か御用はお有りですか。」
退出する前に一応上官兼養い親の反応を伺ってみれば、終業時刻が近づいていることに気付いたのだろう、黎深は緩みっぱなしの顔はそのままに、いそいそと立ち上がった。
「絳攸、今日は特別に案内を付けてやる。さっさと行って、あれに宜しく伝えておけ。…そうだな、”今日は義父上が随分と働いて下さったので仕事が早く楽に済んだ、たまにはうちに夕飯を食べに来ないか”とでも誘って来い。」
落ち着かなげに扇を開いたり閉じたりし続ける黎深の様子は、吏部の面々を震え上がらせ。邵可や秀麗へのそれで多少なりとも免疫のついていた絳攸は、喉の奥に引っ掛かっていた疑問を思わず口にする。
「…あの、黎深様。何故いきなり、楸瑛を夕食にお招きになろうなどと…?」
聞かなければ良かった、とすぐ次の瞬間に思った。何故ならば、養い親の顔のにやけ具合がその瞬間一気に最高潮に達したのだ。
「ふふ、知りたいか?知りたいであろう、ふふふふふ…だが暫くはお預けだ、聞きたくば無事にあれを邸まで連れて来い。あれに直接尋ねてみるのも一興だがな。」
怪しい笑い声を響かせる黎深は、そのまま尚書室へ姿を消し。絳攸は今にも倒れそうになっている文官の一人を引き連れて吏部を出た。
目指す先は、国王の執務室。こうなっては今夜はもう、自分も、そして腐れ縁の親友にも覚悟を決めて貰う外ない、と悲壮なまでの決意を秘めて。
辿り着いた執務室では、劉輝と楸瑛がまるで絳攸の心を既に読み取っているかの様に執務に励んでいた。ほっとする反面、此処でもまた何かが起こったのかと身構えてしまう。
「ああ、絳攸…余はもう緊張のあまり倒れそうだ。定時までにこれを全部上げて楸瑛を渡さないと、紅尚書に何を言われるか分からぬ。でも渡したら最後、楸瑛は…ああ、複雑なのだ…。」
泣きべそをかきながらも、書類を繰る指先はしっかりと動いている。
「黎深様は…主上にも何事か仰ったのですか。」
恐る恐る尋ねてみると、”聞いてくれ絳攸!”とがしりと手を掴まれた。
「何と紅尚書は楸瑛に…」
「しゅ、主上っ!」
数刻前の驚愕から抜け出せぬままに、ぽろりと事実を口にしそうになった劉輝の口を、楸瑛が慌てて塞ぎ。絳攸は更なる謎の中に放り込まれることになる。
「その黎深様だが…今日は珍しく随分とやる気を出して仕事を終わらせて、何故だか知らんが楸瑛を邸に連れて来いと言うんだ。夕食を食べに来いと誘えと…。」
かなり不気味だが一緒に来てくれ、と頼む絳攸に、楸瑛は持てる余裕の全てを失ってがくがくと頷いた。
「何だか、あれだな。ご両親に挨拶したので、次は私の家族に会ってください…という、そんな感じだな。」
ぽつりと実況中継した劉輝に楸瑛は又もや青くなったが、有難いことにと言うべきか、絳攸の方はそれどころではないようで。
「恩に着る、楸瑛。ならすぐ行くぞ!黎深様は一足先に邸に戻られたと思うが、あの方をお待たせすると後が怖いんだ。…主上、申し訳ありませんが、残りは一人で何とか捌いて下さい。」
言うが早いか、楸瑛の手を引っ掴んで扉の外へ駆け出す。
「ちょっ…待って、絳攸!…軒寄せへの道は、そっちじゃなくてこっちだよ。」
「何っ!?…ど、動転して道を間違えただけだ…!」
いつものお約束なやり取りは、何の変化もなく行われたが。
紅家の軒は黎深が乗って帰ってしまったので、二人は楸瑛の藍家の軒に同乗した。
「すぐに済むから、少しだけ寄り道をしていいかい?いくら急なこととは言っても、流石に何の手土産もなくお邪魔するのは気が引けるから。」
そう言って楸瑛は途中で藍家用達の店に寄り、見事な塗りの茶器を購入する。国でも屈指の名工の作で、楸瑛は何も言わなかったが、とんでもない額の品であることは想像に難くない。
「いいのか、楸瑛?そんなに気を遣わなくても構わないんだぞ。あの方が気まぐれを起こされる度にそんなに金を使っていたら、身が持たん。」
絳攸は思わずそう止めたが、楸瑛は軽く笑って首を振った。
「どうせ土産に持って行くなら、満足して頂ける品の方がいいだろう?…贈り主とは関わり無く、価値のある品の方が、ね。」
思いがけず黎深様と心が通じはしたけれど、いつか彼の心が離れた時、せめて贈った茶器だけでも傍で使って貰えたら、と弱気なことを思う。そして、奥方や絳攸に対する謝罪の気持ちも籠められていた。
「楸瑛…?何だか辛そうな顔をしているぞ。無理矢理引っ張って来てしまったが、気が乗らないなら断ってくれてもいい。俺が黎深様に怒られてくれば済む話だ。」
そんな風に気遣ってくれる絳攸に、思わず涙ぐみそうになる。己は大切な親友を裏切っているも同然だ、と酷く息が苦しかった。
それでも、軒は程なく紅家の門前に着き。
「まあまあ、ようこそ。絳攸さんが中々連れて来て下さらないから、仲良くして頂いている藍家の若君の事は人の噂に聞くばかりで、寂しゅうございましたのよ。」
直々に出迎えてくれた紅家の奥方は、柔らかい声でころころと笑う。楸瑛が差し出した土産の包みを、”ありがとう”と素直に受け取って。
「百合姫様…あの、義父上は…?」
絳攸がひそめた声で尋ねた疑問に、彼女のくすくす笑いが更に大きくなった。
「ふふ、黎深なら自分の部屋でああでもないこうでもないと着物をとっかえひっかえしているわよ。よっぽどいい所を見せたいのねえ。…あら、これはあの人の名誉の為に楸瑛殿の前では伏せておくべきだったかしら。」
意味ありげに目配せをされて楸瑛は思わず身を硬くしたが、百合姫はするりと楸瑛の腕に手を絡ませると、さっさと館の奥へ先導してゆく。
「ああ、ちなみに食事もあの人が手ずから作ると言って騒いだのだけど、それじゃあ食べられるお料理は一品も出来ませんもの、力ずくで止めさせましたわ。ちゃんと使用人がまともな物を作ってお出し致しますから、安心なさってね。」
恥ずかしいけれど私もあまり料理は得意でなくて、と笑う顔は茶目っ気たっぷりだ。
「あの…百合姫様、義父上は何故いきなりこうも張り切っておられるので?」
「後で分かるわよ、絳攸さん。まあ、私は一発で気付いたけれど…絳攸さんは初心だから、ちょっとびっくりなさるかも知れないわね。」
恐る恐る絳攸が差し挟んだ疑問には、彼女は曖昧な返事を返すだけで。もしかしたら、この女性は既に黎深と楸瑛との間柄を知っているのだろうか、と楸瑛は頭を悩ませる。
「さあさ、お楽になさって。大丈夫よ、私は貴方の味方。黎深が酷いことをしたら、私が許しませんわ。」
どちらとも取れる言葉で百合姫が微笑みかけた時、どたばたと豪快な足音が響いたかと思うと、回廊の向こうから邸主が姿を現した。
「百合っ!私がちょっと目を離した隙に、それに引っつくな。」
「漸くお仕度がお済みですの、黎深?…あらあら、冠が少し曲がっていらっしゃいましてよ?」
「何!?」
「ほほほほほ…嘘ですわ。大体貴方、今は髪を下ろしていらっしゃるじゃありませんか。この前鳳珠様がいらした時、散々私をからかって下さったお返しです。」
「…義父上と百合姫様はいつでもあの調子なんだ。似た者夫婦というか、何というか…。」
あの紅黎深をこうまで見事に手玉に取る女性がいるのか、と思わず楸瑛が感嘆の息をつきかける隣で、絳攸が深い溜息と共に教えて寄越す。
「ぐぐ…まあ良い、夕餉にしようではないか。」
黎深の一言で、場所は室内へと移り。食事の間は、百合が絳攸と楸瑛が出会った頃の話などを聞きたがった御蔭で、思いの外和やかに時間が流れた。
…が。膳が下げられ、席が酒盛りになり掛けた時、雲行きが変わったのだ。
「楸瑛殿、今日は泊まっていらっしゃるでしょ?藍家までお帰りになれない時間ではないけれど、折角ですもの、是非泊まっていって頂きたいわ。」
きっかけは、百合姫のそんな一言。いや、それに続けられた一言か。
「お部屋は…そうねえ、絳攸さんの室のお隣がいいかしら。」
それは、楸瑛と絳攸が数年来の親友であることを鑑みれば当然の内容だったが、百合姫が何の意図も無くそれを言う筈も無くて。
果たして、見事にその引っ掛けに嵌った黎深が、突然ごろりと横たわると、楸瑛の膝の上に頭を乗せてしまう。
「なっ…黎深様…!?」
「義父上!?」
楸瑛と絳攸が各々異なる驚き方をする一方、仕掛け人の百合姫は会心といった感じの輝かしい笑顔だ。
「楸瑛の寝場所は私の部屋だ。嫌ならこのまま一晩中、私の枕になって貰うぞ。」
滅茶苦茶な理屈だが、一度言い出したら聞かないその性格を知っている絳攸は、気の毒そうな顔をして親友を眺めた。酔いの上での義父の戯れだろう、とその時点では疑わずに。
「あら、黎深。絳攸さんと楸瑛殿ならお友達同士ですもの、夜遅くまで語り合いたい話もあるでしょうに、それを邪魔なさるなんて酷いですわ。」
表向きは優しい義母の顔、そして内心では中々はっきり交際を明言しないくせに独占欲だけは全開の黎深の反応を楽しみつつ、百合姫が更に煽る。すると黎深は寝転がったまま、ぐいと楸瑛の腰を抱いた。
「…うるさい、絳攸はただの”お友達”だろう。私はこれの恋人だぞ、一緒に寝る優先順位は、絶対に私の方が高い!」
叫ばれた言葉を聞いて、”漸く吐いたわ”とすっきりした者一人、”ああ、何て事を”と胃の痛みをこらえた者一人、言葉の内容を受け止めきれずに呆然自失になってしまった者一人。
「い…今、何と…?そ、空耳ですよね…?」
「いけませんわ、絳攸さん。現実を受け止めなくては。私達、楸瑛殿の御蔭で、漸く絳攸さんに性教育を施すことが出来るんですもの。」
早くも現実逃避しそうになる絳攸を、びしりと現世に繋ぎ止めたのは百合姫だ。こればかりは本の文字面で学んでもねえ、と何度も頷く姿は、相変わらず可憐な仕草のままだったが、言っていることは物凄い。
「ああ、まだ何もご説明しておりませんでしたわね。私と黎深は、夜の営みにはご縁がありませんの。お互い、訳ありなんですもの…ですから、私には何の気兼ねもなく、紅家にお泊りになって、気が向いたら黎深と睦んで下さって構いませんのよ、楸瑛殿。」
あっさりさっぱりそう告げると、不意に彼女は立ち上がった。
「納得出来たなら、行きますわよ、絳攸さん。人の恋路を邪魔するものは何とやら、ですもの。とんでもない人だけど、黎深を宜しくね、楸瑛殿。…もし苛められたら、大声で私を呼んで下さいな。思いっきりこらしめてやりますわ。」
絳攸を引きずって、さっさと彼女が部屋の外へ消えてしまうまで、楸瑛も、黎深ですら一言も発せずにいた。
「あれでも、鳳珠の前では少しは大人しいんだがな。だが、お前を引き合わせたら喜んで迎え入れると言った言葉は外れていなかっただろう。」
妙に穏やかな調子でぽつりと黎深が口を開き、次いでいつものあの意地悪気な微笑を浮かべた。
「絳攸の戸惑い振りも面白かった。一晩中、悶々として夜を過ごすに違いない。」
「…御蔭でしばらくは、絳攸に避け通されそうな気がしますよ。」
「ふん、あの洟垂れ小僧の前でした様に、実地で我々の事を教えてやらなかっただけ、有難いと思え。大体、前々から思っていたことだが、お前と絳攸は仲が良すぎる。」
ふう、と溜め息をついた楸瑛を、起き上がった黎深の深い口付けが封じ。そのまま床の上に縫い付けられるようにして接吻が続いた。
恍惚とした表情の楸瑛が完全にその身体の抵抗を失ってしまってから、黎深はふわりと恋人を抱き上げる。
「…っ、黎深様っ…?」
そのままずんずんと回廊を歩き始めた黎深に、楸瑛は思わず遠慮がちに声を上げた。今までも何度か、期せずして黎深に抱き上げられた事があったが、流石にそのまま長い距離を移動するのは重いだろう、と困惑してしまう。
「重くなどない。婚礼の夜は、こうして抱いて寝台まで運んでやるものだろう?そしてお前は、私の首に腕を廻して縋りつくのが礼儀というものだぞ。」
けれど、そんな風に愛しげに囁きかけられてしまえば、やはり幸せがこみ上げて。淡く頬を染めながら、楸瑛は黎深の言葉の通りにその首許に顔を埋めた。
「茶器の名品を土産に貰ったとか…お前が選んだのか?」
「…はい。…お気に召しませんでしたか?」
「お前の目に適ったものを、私が気に入らぬ筈なかろう。余計な心配はせずとも良い。…今度、それで茶を入れてくれ。私だけにな。」
尋ねられた内容に一瞬身を硬くしたものの、命じられた内容の甘やかさに、すぐにその強張りは解ける。はい、と微笑んで頷いた楸瑛の髪に、約束の証とばかりに黎深が唇をおとした。
「私からも何か贈らねばな。何が良いかと迷うところだが…」
思案する様子の黎深に、先日既に鏡を貰ったと言ってみれば、あんなものは贈り物には入らぬ、と不満そうな顔だ。
「お前の傍らにあるに相応しく、お前の喜ぶ顔が見られるもので、尚且つ私にしか贈ることが出来ぬものでなくてはな。」
先の鏡とて十分その条件を満たしているのだが、黎深が贈り物にかける情熱が並ではないことは、既に秀麗への改良蜜柑や、見舞いの薬の山で周知の事実だ。…若干、どころかかなり行き過ぎのきらいもあったが。
そうこうする内に、邸の最奥に位置する目指す室に辿り着き、楸瑛はまるで壊れ物でも扱う様に寝台へおろされた。柔らかい敷き布に沈み込んだ直後、羽根の様な口付けが降ってくる。
優しく、しかし的確な愛撫は、どんどん身体の熱を高め、やがて指先で局部を愛でながら黎深の唇が甘く胸の飾りを吸った時、楸瑛は思わずあられもなく声を上げそうになって、はっと己の手で唇を塞いだ。今の今まですっかり失念していたけれど、万一百合姫や絳攸に自分のそんな声を聞かれたら、明日の朝合わせる顔がない。
「聞かせてやればよい。絳攸の色事嫌いも治るかも知れん。」
そんな感情の変化に目敏く気付いた黎深が、そんなからかいを投げてから、冗談だ、と微笑った。
「勿体無くて余人になど聞かせられぬわ。百合の部屋も絳攸の部屋も、此処とは離れているし、人払いもしておいた。…私だけの為に啼け、楸瑛。」
それからゆるゆると追い上げられ、楸瑛は何度となく黎深の手や口に達した。その合間にごく丁寧に後蕾を拓かれ、痛みすらなく雲の上をたゆたっている様な気持ちになる。
穏やかな快感の中で、強い刺激への渇望が渦巻いた。
「…黎深様…」
縋るように、名を呼ぶ。それだけで、今のこの人には自分の望んでいるものが伝わると、そんな気がした。
「閨の中では”様”は要らぬ。ただ、”黎深”、と…。私も早くお前と一つになりたい。」
そんな言葉と共に軽く先端を擦り付けられ、楸瑛は命じられた通りの呼び名を、縋るように口にする。
「…黎深…っ…」
「…そうだ、楸瑛。…っ…」
その瞬間、灼熱の肉棒で一息に突き上げられ、楸瑛は悲鳴にも似た嬌声を、黎深は瞬間に達してしまいそうになるのを耐える様に荒い息を吐いた。
「上手すぎる、ぞ…こんなに、煽ってっ…」
小さく恨み言を呟いてみるも、閨の中での手練手管を使っている余裕など、楸瑛には無いようで。闇の中できらりと光る潤んだ瞳が、ひたすらに黎深に助けを求める。
「…共に、ゆくぞ。」
そう囁いて一際大きく腰を動かした瞬間、二人の熱は同時に弾けていた。
「…ん…」
昨夜の名残は、楸瑛が気を失っている間に黎深が全て清めてくれたのか、肌にべたべたした不快感を感じることもなく。黎深の片腕を枕にし、更にもう一方の腕で抱き寄せられた形で、楸瑛は未明に目覚めた。
朝が来るまであと僅か、もう少しだけ、この満ち足りた幸せに浸っていたくて。
静かな寝息を立てる黎深の頬に、そっと触れるだけの口付けをする。
「…目覚めの口付けは、唇にするものだぞ。それにしても、いつもこんなに早いのか?」
未だ眠そうに目を開けた黎深が、そんな注文と共に顎を持ち上げ、深く舌を絡ませてきたのには驚いたけれど。
「…っ…眠っていらっしゃるものとばかり…」
「ふふ、私の恋人は慎みが深すぎて、朝の光が差し込む前に腕の中から飛び立ってしまいそうゆえな。だが、目覚めた御蔭で良いものが見れた。」
見れた、というよりは感じた、というべきかも知れないが、考えてみれば楸瑛から黎深に口付けを贈ったのは、これが初めてだった。
「もう起き出すなら、髪は私が結ってやろう。衣は、昨日のうちに呉服屋を急かして用意させた。今日はそれを着てゆくがいい。」
いつになく柔らかい笑みを浮かべた黎深が、甲斐甲斐しくそんな世話を焼き。黎深の仕度の方は、逆に楸瑛が手伝った。
予想に反して時間通りにきちりとした格好で連れ立って朝餉の席に現れた二人に、百合姫はかなり意外そうな顔をして。絳攸の方は、楸瑛の顔を見た途端に顔を赤くしてあらぬ方向を見つめる。
「まあ。黎深は誰が起こしに行っても、朝は中々起きて参りませんのに。やっぱり楸瑛殿の前だからいい所を見せたかったんですわね。」
「…っ、余計な事を言うな、百合。私はただちょっと朝が苦手なだけだ。大体、今朝だって目覚めたのは楸瑛の方が早かった。」
「全然威張れませんわよ、黎深。」
「ふん、要は起こし方の問題だろう。今日は非常に気分爽快で目覚めたぞ。」
「当たり前ですわ。愛しい方が傍に居て、口付けでもして起こしてくれたのでしょう?贅沢な話ですわ。」
「なっ、何故お前がそれを知っている。まさか覗きでもしていたのではあるまいな。」
「そのくらい覗かなくても分かります。」
百合姫と黎深がそんな攻防を繰り返す間に、楸瑛はそっと絳攸の傍らに腰を下ろした。
「おはよう、絳攸。…その…悪かったね、でも流石にちょっと言い辛くて。」
相手の様子を覗いつつそう切り出せば、絳攸は真っ赤な顔のままちらりと楸瑛を見る。
「べ、別に…お前も義父上も幸せそうだから、俺に異論はない。百合姫様も楽しそうだしな。その…着物も良く似合っている。まるで式典用の様な豪奢な作りだが。」
このぎくしゃくしたしゃべりは彼の照れが治まるまで当分直らないだろうが、絳攸は自らの緊張を誤魔化すかの様にしゃべり続けた。
「か、身体の方は、辛くないのか?…昨夜百合姫様が、きついだろうから気遣ってあげなさいと言っていた。お前は左羽林軍勤めだし…や、やはり文官として戻って来たらどうだ。」
気を紛らわそうとしているのか、ご飯を高速で掻き込みながらそう言った絳攸は、息継ぎをした瞬間、ごほごほと盛大にむせる。
優しく背を叩いて親友を介抱する楸瑛の姿に、黎深が臍を曲げたのは言うまでもなく。
「わ…私の目の前で楸瑛に背をさすって貰うとは、いい度胸だ、絳攸…!ああ、うらやましい、私なんか酒にも下手に強いばかりに、あの三つ子共と飲み比べた時も楸瑛に背中をさすって貰った記憶などないぞ!」
「大人気ないですわ、黎深。楸瑛殿に愛想をつかされたくなければお黙り遊ばせ。」
百合姫の影からじと目でぶつぶつ文句を言いながら、今にも扇子を投げつけようとぶるぶる震えている彼からの冷気に、絳攸は新たなる危機の到来を知ったのだった。
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