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月香華-03





 いつも、”藍家のもの”だった。存在も、地位も、名誉も…そして”藍家のため”の思考や行動が当たり前になっていた。
 ―――だからこそ。

『…気に入った。私のものになれ、楸瑛。』

 黎深が投げかけてきたその言の葉が嬉しかったのかもしれない。計算なのか偶然なのか、その時だけ”藍”の家名を付けずに求められたことが。
 そう、たとえそれが、今宵一晩の繋がりであったとしても。



「初めてか?ならば少しは手加減してやっても良いが。」

 楸瑛にもはや抗う気が無いことを察したのだろう。からかうように覗きこんできた黎深から、楸瑛は”ご冗談を”と顔を背けた。

「年頃になった折、兄達に一通りは手ほどきをされましたよ。妓楼遊びは…ご説明申し上げずとも、人の噂にお聞きでしょう。」

 必要以上に手馴れた振りをするのは、年上のこの人相手に見栄をはった部分が無きにしも非ずだ。つまらぬと飽きられたくない、とそんな思いがあった。
 だが、その言葉に黎深の瞳は剣呑な色を放って。

「…ならば手加減などせぬ。これまでの相手がカスに思えるくらい悦がらせてくれるわ。」

 唸るような言葉と共に、痛いほど首筋を吸われた。引き裂くように衣装を剥がれ、体中を余すところなく愛撫される。
 素肌には、もう幾つ彼の痕が残されたことだろう。あられもなく喘ぐことはすまいと必死に息を殺しても、呼吸はどんどん荒くなって、自分を侵食してゆく黎深の背に縋りつく。爪をたてて傷を残さぬよう、気を配りながら、だが。

「啼け。その声も…私のものだ。」

 愛撫の合間に耳元でそう囁かれ、あっけなくその命に屈した。

「くっ…ああっ…黎深…様っ…もう、どうか…っ」

 開放を願う声を、黎深は何度も焦らした。絶頂の一歩手前まで高めては堰きとめ、更なる快楽に突き落とす―――ある意味何とも彼らしい責め方で。

「お前が過去に寝台に引き入れた人間を忘れるには、こんな程度では足るまい?」

 意地悪げに笑みつつ叩きつけられる欲情は、やがて楸瑛が限界に達して気を失っても止むことがなかった。

 眠りは、それこそ泥のようで。朝日が淡く室内へ差し込んでも、楸瑛はぴくりとも反応せずに眠り続けていた。先に起き出して、昨晩僅かに残った未決済書類を片付けてから、黎深は再び若い愛人の隣に横たわる。
 目が覚めた時、かれはどんな顔を見せるのだろう。恥ずかしそうに俯くだろうか、それとも気だるげに首を傾げるだろうか。あるいは下肢の負担に耐え切れずに布団にもぐりこむだろうか。
 そんなことを考えながら、いつの間にか黎深も再びの睡魔に襲われて。再び気がついた時には、広い寝台の反対側からあるべき存在が失せていた。昨夜の営みで乱れた寝具は整えられ、痕跡を示すものは、品の良い微かな残り香だけ。

「…逃がすつもりはなかったが…まあいい。それにしても良く動けたものよな。」

 楽しげにくつくつと笑う黎深は、兄や姪がからんだ時を除けば、驚くほど機嫌が良くて。数刻後に出仕して来た吏部の面々は、そんな上官と見事に片付いた書類に迎えられ、不思議そうに首をひねることになる。



 ―――一方。

(…あの人は、本当に容赦がない。)

 来た時に教えられた隠し通路を戻りながら、楸瑛は壁に縋って何とかだるい身体を動かしていた。
 あんなに激しく抱かれたのは初めてで。自分でも、よく壊れずに朝を迎えられたものだと思う。気力だけで帰途についているようなもの…どうみても今日一日は身体が使い物にならなそうだけれど。

 あのまま寝台に横たわって黎深の目覚めを待つ勇気は楸瑛にはなかった。
 昨夜のことはほんの戯れの冗談だと、早く出て行けと、そんな言葉を聞くのが怖くて。…酷薄な表情でそんな台詞をつむぐのが、何とも良く似合う人であるだけに。

「藍…楸瑛…?」

 誰にも会うことはあるまいと思っていた隠し通路の向こうから来た人影に、ふいにそう名を呼ばれて、楸瑛はびくりと顔を上げた。
 そこにあったのは、絹のような黒髪を背に流して佇む、美貌の男の姿。見覚えのある顔ではない…否、これほどに整った顔ならば見忘れることなど有り得ない。だが、その黒髪や体格には見覚えがあった。

「あなたは…まさか…黄尚書でいらっしゃいますか?」

 遠慮がちに尋ね返せば、相手は満足そうな微笑を浮かべて。

「…その通り。まことの名は、黄鳳珠という。」

 そう明かしながら、彼は楸瑛が立ちやすい様にさり気なく身体を支えてくれた。

「どうした、このような場所で。しかもその姿…何かあったのか?…この先は…黎深の室、か。」

 特殊な場所、しかも髪もほどかれたまま。何事もなかったと思う方がおかしい。恐ろしく優秀なこの人なら、恐らく現実の八割方は既に正確に察しているだろう。

「答えずともよい。…私の助けは必要か?」

 即座に先の問いを引き下げた黄鳳珠は、一言だけそう問いかけ、楸瑛はそれにゆっくりと首を振った。

「…いいえ、鳳珠様。ただ…今日はもう自邸へ戻りますゆえ、軒を手配しては頂けませんか。」

 自分で部署へ借りにゆくだけの気力は既にない、と苦笑する楸瑛へ、鳳珠は介助の手を差し出しつつ、来た方へと踵を返した。隠し通路の入り口で、暫くここで待つようにと告げ、黄鳳珠は黄奇人へと自身を戻して外へ出る。
 さほど待つ事無く黄家の軒が手配され、楸瑛が最も乗り込み易いような位置に横付けにされた。

「藍家の軒を呼べば、退出が目立つ。」

 言葉少なに説明する奇人は、どうやら隠れ蓑となって楸瑛を藍家別邸まで送り届けてくれる気のようだ。早朝といえど、人の目と口に戸は立てられない。

「ご厚情に甘えます。」

 そう頭を下げた楸瑛を手伝って軒に乗せ、休んでいろ、と優しく半身を引き寄せて。楸瑛の頭の重みを引き受けたのは、奇人自身の膝の上。

「もし…どうしようもなく苦しくなった時は、いつでも私を頼れ。腐れ縁だが、あの男とは同期だ。」

 ”何とかしてやる”と撫でるように緩やかに髪を梳かれて、楸瑛は黎深に有無を言わさず引き寄せられた時とは正反対の穏やかさに包まれたのだった。

 軒は、ひっそりと藍家別邸の裏につけられ。邸の使用人達を騒がせることはしたくないと、楸瑛は毅然とした姿で地面に降りたつ。藍州の兄達の許に知らせがゆくのも避けたかった。
 送ってくれた奇人に丁寧な会釈をして、軒が去るのを見送る。ゆっくりと押し開けた門扉は、疲れた四肢も相まって酷く重く感じられた。

「…ご主人様!お戻りでいらっしゃいましたか。」
「ああ。湯浴みの仕度と…自室で暫く休むから、人払いをしておいてくれるかい?それから城に、今日は欠勤させて頂くと使いを。」
「はい。どこかお加減が…?」
「うん?大丈夫だよ、心配しなくていい。疲れただけだから、少し休めば治るさ。」

 時間が時間にも関わらず物音を聞きつけて出迎えてくれた使用人には、いつも通りの笑みを返せただろうか。自室に戻り、鏡の中に見た己の顔の青白さを思えば、今ひとつ自信が持てなかった。

 やはりどうかしていたのかも知れぬ、昨晩の自分は。何の抵抗も打算も無しにあの紅黎深に身をまかせたなど…兄達や龍蓮が聞いたなら呆れるだろう。…何を愚かな、と。

(それでも私は―――あの瞬間、あの人の…紅蓮の炎に灼かれたいと、思ったんだ。)

 藍色の衣をけだるい仕草で脱ぎ落としながら、楸瑛は嘲笑う。

(湯を浴びて昨夜の名残を洗い落としたら、あれは一夜の夢だったと思うことにしよう。きっとそれが、あの人にとっても私にとっても、周りを取り巻くすべてのもの達にとっても…一番いい。)

 そう自分に言い聞かせる彼の頬には、本人にも自覚されぬまま、透明な雫が伝っていた。





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