Spirit
「あの時は驚いたものだ。そして一瞬後には、私はこの王子と酒を酌み交わす事が出来ぬのか、と心底残念に思ったがな。」
「お人が悪いですよ、そんな随分と昔の、私が覚えてもいない事を未だに仰るなんて。」
闇の森の宮殿の一室で王とその末の王子が寄り添って寝椅子に座っている。少々からかう口調の父王に、王子は拗ねたような表情を返したが、その光景は仲睦まじいものであった。前に置かれた卓には、数々の貴重な酒のボトルが置かれていた。
そう、これはある者にとってはほんの一時昔の、そして又ある者にとっては遠い昔の、記憶の彼方に埋もれてしまった物語。
当時も今も、かの森のエルフ達の宴会好きに変わりは無く。森では夕刻になると決まって酒が酌み交わされた。生まれてから未だ然程の年月を経ていない己の末子を森の王が宴の席に同伴し始めたのはそんなに遅い時期ではなかった。
抱き上げて連れて来て膝の上に座らせ、無邪気にはしゃぐ王子の声を聞きながら杯を傾け…やがてはしゃぎ疲れて王子が眠ってしまったら、父王もそっと席を立ち又抱き上げて連れ帰る…と、そんな日々の繰り返しだった。
そんなある日のこと。
膝の上の王子が翠色の瞳を一杯に見開いて父王の手元を見つめた。
「如何した、緑葉?」
不思議に思ってスランドゥイルがそう問い掛けると、舌足らずな口調で末の王子が答える。
「きれいないろ…それは、なに?」
息子に尋ねられてその視線の先を辿ると、自分の手に握られていたのはなみなみと酒が注がれたワイングラス。息子の興味を奪ったのが、自分がj好んで収集した数々の宝石ではなく、ワイングラスとは…。スランドゥイルは我知らず苦笑しながら言葉を紡いだ。
「ああ、これは、酒だ。ワインと言ってな、上質の葡萄から作ったものほど質の良い味になる。そなたも大きくなったら、父と共に飲ませてやろう。」
末の王子がなおもワインをじっと見詰め、そっと手を伸ばしているのを見て、父王はその掌にグラスを握らせてやった。
「飲んではならぬぞ。そなたには少しばかり未だ早い。」
嬉しそうににっこりと笑って掌の上で杯を回し、中の液体を凝視するレゴラスに、スランドゥイルの頬にもつられて笑みが浮かぶ。
「良い香りであろう?」
息子の頭を撫でながら父王がそう言うと、末の王子はその香りを楽しもうと鼻をグラスに近づけた。その、瞬間。幼子の小さな身体がぐらりと揺れる。
はっとした父王がその背とグラスとを支えた為転倒は免れたが、王子の頭はぐったりと父王の胸に預けられた。
「如何したのだ、しっかり致せ、緑葉!」
父王が僅かに慌てた声を上げながら、その身体をそっとゆさぶる。末の王子は美しい色のその瞳をゆっくりと開いたものの、その瞳は焦点を結んでいなかった。
「ちちうえ…なんだかからだが…ふわふわします…」
夢心地でぼんやりと呟かれた言葉に、父王は漸く事態を悟った。
(酒の匂いに酔ったか…)
急ぎ側近を呼びつけ宴席の片付けを命じると、スランドゥイルは末の王子を横抱きにしたまま立ち上がった。
向かう先はいつも通り、王の私室。
大切な王子の身体を寝台にそっと寝かせると、父王はその肩を柔らかく抱いて共に寝転んだ。
「寒くはないか?気分が悪かったりはせぬだろうな?」
王子は弱弱しく首を横に振ったが、その瞼はゆっくりと閉じられていった。
「だい…じょうぶです、ちちうえ…でも、すこしだけ…ねむくなって…。」
そのまますやすやと寝入ってしまった王子を見て、スランドゥイルはほっと胸を撫で下ろした。そっと上掛けを掛け直してやり、額に軽く接吻を落として室を後にする。
それから王子が成長する迄、闇の森では軽い口当たりの果実酒ばかりが好まれたとか…森の王秘蔵の強い酒の数々は、館の奥で幼子の成長を待つ事になる。
「さて、我が緑葉は強い酒でも楽しめるようになったかな?」
笑みを浮かべる父王に、からかわないで下さい、と末の王子が唇を尖らせた。
「からかってなど居らぬぞ、緑葉よ。このワインはな、いつか共に嗜む日の為に、とそなたが倒れたあの日からずっと館の奥に眠らせておいた物だ。今までそなたに飲ませていた軽い酒とは格段の差だぞ、味も、香りもな。」
そう言いつつ、手ずからワインの栓を抜くスランドゥイルに、レゴラスは表情を改めた。用意されたグラスに、真紅の液体が注がれていく。
「綺麗、ですね…。」
昔と全く変わらぬ感嘆の言葉を述べる息子に、スランドゥイルは優しく微笑んだ。
「小さな時も、そなたはそう言ってこの酒に目を奪われておったのだよ。」
二つ目のグラスにも同じようにワインを注ぎ入れようとして、スランドゥイルはふと手を止めた。黙って手招きをし、末息子を傍らに引き寄せる。
ふっといつもの少しだけ意地悪げな笑みがその口許に浮かんだ。
「あの時と同じように香りだけで酔ってしまわれてはつまらぬ故、な。」
そう前置きすると森の王はぐいと杯を煽り、次いで口移しでレゴラスにそれを与えた。一瞬驚いたように身体を強張らせたレゴラスだったが、与えられた飲み物をこくりと飲み下す。
「美味かったか?」
至近距離からそう尋ねる父王に、味なんて解りませんでした、と小さな反論の声が返される。それならば、と再び酒を口に含んだ父王が、口移しで酒を与えるのと同時に、更に深い口付けを仕掛ける事になるのだが。
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