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So close or so far


 貴方に、誰よりも幸せになって欲しいと願っていた。
 母譲りの美しい赤銅色の髪を持つ、長兄マエズロス…ともすればばらばらになりかける我ら兄弟をいつも見守り、そして纏めあげてくれたひと。

 弟として彼の苦悩を誰よりも側で見ていた筈だけれど、その肩に掛かった重荷を引き受ける事は叶わなかった。
 どうして貴方は。そんなにも優しくて、そして哀しすぎる微笑みを頬に浮かべる?




「兄上…お加減は如何ですか?」

 寝台からそっと半身を起こして眩しげに室内に差し込む朝日を眺めやっている兄を驚かせぬ様にそっと静かな声を掛ける。マエズロスを取り戻したから会いに来い、とフィンゴンから伝令を貰って以来、少しでも兄の身の回りの役に立ちたいと願って彼の屋敷に共に住まってからもう数日になる。

「…うん?ああ、別にどうもしてはおらぬよ、病人ではない故な。」

 単にその右手が無いだけだ、と暗に言おうとしているのだろう。けれど…モルゴスによって貴方の心に植えつけられた傷は…厄介な病よりも重くその身を苛んでいるのではないのですか。

 涙が、溢れた。ただ、他にどうしようも無く。痛々しい兄の姿に、そして二度と会う事さえ叶わぬと思っていた彼に生きて再び会えた事へ今更ながらに感慨がつのって。

「涙をおさめておくれ、マグロール。何を哀しむ…?」

 今は片方しかないその手を伸ばしてそっと頬を伝う雫を拭ってくれた兄が労わる様にそのまま私の髪を撫でた。

「哀しむ事などありはしない。父上のシルマリルを取り戻す事は…彼の血筋である我等に残された責務だけれど…それはきっと私がなんとかしよう。」

 そうだ、そうして貴方はいつも、独りで何もかもを背負い込む。私達はそんな貴方に頼りきって、気付かぬ間に守られていたのだから。

「違うのです…私は己の無力さを悔いているだけ…。兄上のお力になりたいと願いながら、いつも結局は貴方に逆に救われている。」

 兄の寝台に腰を下ろし、そっとその肩に頭を預けると、兄が身に纏う独特の芳香が私を包んだ。

「どうかその責務の一端を…このマグロールにも負わせて下さいませ。貴方が求める物を…貴方が瞳に映すものを、私も追いかけたいのでございます。」

 兄から返ってきたのはあの優しくて哀しい微笑だけだったけれど。




『髪を、結ってくれるか…?』

 場の空気を変えるかの様にそう言葉を発した兄の髪筋をそっと手に取り、かつてと同じ様に丁寧に結っていく内に、室の外に見知った気配が現れる。

「マエズロス、入るぞ?」

 一応の声を掛けてから入って来たのは従兄弟であるフィンゴン。武勇に優れ、モルゴスに捉えられていた兄を単身で救い出した男。兄の頬に浮かぶ笑みがほんの少しだけ色彩を変えた様な気がした。

「気持ちの良い朝だぞ、マエズロス。体の具合はどうだ?」

 明るい従兄弟の台詞に兄が何と答えるかは、大体の想像がつく。

「お前も心配性だな…大丈夫だ、身体は大して参っておらぬ。」

 果たして想像通りの台詞を呟いた兄に、フィンゴンは何とも複雑な顔をして近くまで歩み寄った。

「…それは…でも、ゆっくり休めよ、遠慮はいらぬからな。」

 ごく自然に、兄の唇に従兄弟の唇が触れ合わされる。西の地に居た時から、まるで魂の半身の様に互いを愛しんだ二人だ、挨拶代わりの事で別に特別な話でもないのだろう。
 それでも何故だかその光景を間近で見ていたくはなくて、微かに顔を背けようとした時、口付けを受けている兄の瞳が泣きそうな色を湛えている事に初めて気付いた。

 …どうなさったのです、兄上…?強い貴方がその様な御顔をなさる事自体珍しいけれど、フィンゴン相手に、というなら尚更だ。

「フィンゴン…朝から済まぬが、今朝は未だ少し疲れが取れておらぬらしい。お前の言葉に甘えて今しばらく休ませて貰っても良いか?」

 やっと二人の影が離れた頃、遠慮がちな兄の声がそんな言葉を紡ぐ。

「あ・・・ああ、勿論。済まなかったな、早くから押し掛けてしまって。どうも貴方の顔を見ないと俺の一日は始まらぬらしい。」

 爽やかに笑って、来た時同様に風のように室を出て行く彼。
 兄上の意図に、彼は気付いていたのだろうか?私が知る限りでは初めて、兄上が意図して彼を遠ざけたという事に。




 退室して行ったフィンゴンの背をじっと見つめている兄の横顔が、まるで別れを告げているかの様で。次いで此方に向けられた視線には、戦場に赴く時の様な厳しさが見え隠れしていた。

「帰還の仕度を、マグロール。」

 果たして兄の口から出た命令はそれで。けれど、今この時に兄にそんな力は残っているのだろうか。

「お言葉ですが兄上…大丈夫なのですか。今馬になどお乗りになったら…又折角の小康状態が…。」

 帰還すれば、又弟達の面倒を、不平不満を、この兄が一身に処理する事になる。個性的で癖の強い彼らを纏める事が出来るのはこの長兄しかいないけれど、でも本心を言えば…兄にはもう少しだけ、何にも煩わされる事無く心を休めて欲しかった。

「フィンゴンを、巻き込む訳にはいかぬのだ…」

 小さく呟かれた言葉は流石の私の想像をも超えたもので。思わず、『今、何と?』と聞き返してしまう私が居る。

「フィンゴンをな、我等の呪われた運命に巻き込みたくは無いと言っている。このまま側に居れば、否応無しにそうなってしまうだろう…?出来ればお前達の事も…弟達の事も運命の輪から救い出してやりたかった。」

 苦い声音で呟く兄の表情が苦渋に満ちていて。思わず寝台に座ったままの彼の肩をきつく抱きしめる。

「お独りで全て背負おうとなさいますな。他の弟達は知りませぬ、けれど私は…兄上の立ち向かわれる相手が何者であれ、いつも貴方と同じ物を見据えていたいと申しましたでしょう…?」

 知らず知らずの内に頬を又涙が伝って、それが兄の髪を微かに濡らす。

「フィンゴンもな、かつて私にそう言ったのだよ。けれど…我等の家の運命を身に受けるのは、本当に私だけで十分だ。お前にも、あれにも…血まみれた不幸ではなく、幸せを身に受けて欲しいと思うのだよ。そんな風に励ましてくれる優しい気性のそなた達だから尚更な。」

 この長兄は穏やかだけれど、自分の信念はなかなか曲げない。

「兄上自身の幸せはどうなるのです…!?私も、フィンゴンも、それを願っておりますものを。」

 そんな言葉と共に咽び泣くのが精一杯で。

「こうして戻って来て、お前達の顔を再び目にする事が叶って…傍にいてくれるという肉親が二人も居て…。これ以上は望まぬよ、マグロール。これ以上はもう何も望まぬ。この先の未来を知ることなど未だ出来はしないが、どんな物になろうと命数が尽きるまで生きていこうと思わせてくれたのはそなた達だ。例え体の居場所が離れても…私の心はいつもそなた達を想っているよ。」

 何という、深い慈愛に満ちた存在なのだろう。モルゴスの責め苦を受けても、兄のこの精神は変わる事など無い。

「…出立の事、フィンゴンには…?」

 尋ねた言葉に、兄はほんの少し眉を寄せた。

「出立の準備が整ってから言おうと思っている。…あれに引き止められたら、決意が揺らいでしまいそうだから。」

 兄が垣間見せた、ほんの少しの弱さ。ならば私は兄上のお心を汲み取りましょう、我等一族にかけられた呪うべき運命の輪から彼を救いたいという、貴方のお心を。

「お言葉通りに、兄上。仕度が整うまでにまだ数日は掛かりましょう。少しでもお体をお休め下さいます様。」

 室を出る前には、あの従兄弟のしていた様な恋人の口付けではなく、仕える相手としての、指先への接吻。剣を持って戦うこの指先に、多くの祝福あれと願いながら。





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