尊敬から愛情へ姿を変えたわけではなかった。
ただいつ頃からだったか、比べる対象は己の視野から消え去った。
そう、かの王はいつしか己の気づかぬうちに絶対的な存在になってしまっていたのである。
Lomion
裂け谷へ使者を送ることになったのはオークからの襲撃に勝利した後、ゴクリの逃亡に気づいた、空が漸く白んじて来た頃だった。
なぜ裂け谷かと言えばアラゴルンが去り際に一言残して言ったからである。
「もしこの者に何か少しでも変事が起こったならばすぐに裂け谷へ知らせていただきたい。」
まったく、私たちの失態であった。
彼がここまで気にかけるならば、それ相応のものであるのは当然といえよう。
預けられたものの価値を無意識とはいえ軽んじてしまった、私たちの失態だ。
「仕方あるまいな。使者はレゴラス、そなたに任せる。」
予想していたとは言え、更に闇が濃くなる今、森を離れることに私はそっとため息をついた。
出立は父のできるだけ早くという意向に従って明日の朝となった。
旅装に着替え、準備を終え、あとは父上の書簡を待つのみとなった時、すで外は薄暮であった。
もしここがかのドリアスであったならルーシアン姫がその名に相応しくローメリンディのさえずりに身を任せたのだろうか。
いや、今も裂け谷ではアルウェン姫が歌い、踊っているのかもしれない。
もし姫が裂け谷にいるとすればの話だが。
そんなことを考えていたせいだろうか。
気がつけばレイシアンの、しかもベレンとルーシアンの出会いの場面を詠っている自分に気づいて苦笑する。
けれど、あまりにも風が気持ちよく、木々と鳥たちがさえずっていたので私はそのままその流れに身を委ねることにした。
ベレンとルーシアンは結ばれぬ仲。
定命の彼らとは必ず永遠の別れを強いられる。
それを知っていてもお互いを選んだのは何故だろう。
誰にも祝福されぬだろう。悲しむだろう。
仮にも一国の姫君が、そんな恋愛にどうして身を焦がしてしまった?
火花のような、儚い人の子のいのちを、あなたは知っていたのでしょう?
ああ、許されぬ想いほど膨れ上がり止められなくなるのは何故?
望まれてもいない想いを伝えたくなるのは。
…あのひとはどこまで気づいているのだろう。
いっそ呪わしいほどの私の執着に。
声ならぬ思いを身にまとわせて、見上げた双眸に、風に流れるその髪に、その答えを探せども、
残るはただその髪の色と同じ月ばかり。
ああ、いつか壊れてしまうのなら
このままそっと見つめていようか。
いつまでも。
あなただけを。
はたり、と
地に落つる、涙を知る。
何を泣いているのか。
叶わぬ想いと定められていることなど最初からわかっていたはず。
父親に、抱く想いなどではないのだと。
何を泣いている。
スランドゥイルの息子ともあろうものが。
息子の私が。
「・・・・・お慕い、申し上げております・・・・。」
やっと口に出す事ができたその想いは、ずっと心の奥でゆらめいていた、その言の葉は薄暮の空に吸い込まれ、風に溶けていった。
「誰ぞ?」
静寂をやぶったのは、誰であったか。
振り向く事叶わず体を後ろから包まれる。
決して強く抱きしめられているわけでもないのに、体がまったく動かなかった。
後ろにいるのは。
この、己を包む暖かさは。
「父上・・・・。」
「レゴラス、我が緑葉。そなたが慕う者がいたとは知らなんだな。」
からかうような口調で父は言った。
あなたです。
そう言えばいいというのか。
気持ちを言葉にできれば、この涙も乾いてゆくのだろうか。
「そなたを泣かす不届き者の名を申してみよ。」
吐息が耳にかかって視界が霞がかる。
頭の中はもやで覆われ、考える事を放棄しそうになる。
「我の許可なく緑葉をつみとることなど許しはせぬ。」
髪をすいていた細く長い指が頬にかかり、思わずその優しい手に縋りつきたくなる。
「我のいとしい、緑葉・・・」
低い、声。
その声が悲しみの色を含んでいるように聞こえたのは私の気のせいだろうか。
抱きしめるかいなの力が強まったのは私の願望が感じさせたまぼろしか。
「お慕い、申し上げております・・・父上・・・」
己の口から出た言葉に動揺したのもまた自分だった。
今、私は何と言った。
・・・後ろにいるのは誰で、私の何にあたる人か・・・!!
指先が冷えていく。
血の気が引くという状態に初陣以来に襲われた。
いや、戦場よりも状況は芳しくない。
今ここに逃げ場など、どこにもないのだから。
不安と焦りでどうしようもなくなった時、自分の体と頬を包み込んでいた暖かさが消えた。
やはり。
落胆と、ほんの少しの安堵で目を伏せたが、それも一瞬だった。
強い力で後ろに引かれ、父の顔を見上げるすきもなく、その胸に顔を押し当てられる。
「そなた、我より先にマンドスへ行ったら承知せぬよ。」
それが先程の答えなのかはわからなかったが、その声にほぼ反射的に答える。
「どうしてそのようなことできましょう。」
私は父上と共に西へ渡ります。
そう続けようと思ったが、見上げた父の瞳に見入られ言葉が吸い取られてしまう。
「その誓言、けして違えることなきよう。」
瞳の奥で星が瞬いた気がした。
その深い蒼が近づく。
そこに自分が映っている、とぼんやり思ったときに、唇に暖かいものを感じた。
目を閉じる。
いつものような触れるだけの戯れのような口付けではない。
もっと深いそれは明らかに親子のそれではなかった。
これは夢だろうか。
レイシアンの夢の中にとらわれてしまったのか。
ああ、夢なら夢でもいい。
唇を離し、見つめあうこと数刻。
見慣れた群青はいつにもまして深く、しかし透明だった。
自分たちがまるで、かのエルウェとメリアンのようだ、とふと思ったとき、思わず笑いがこみ上げる。
「何を笑っておる。」
いくぶん不機嫌な父の声。
「申し訳ございません、ただ、かのエルウェ王もこのような気持ちであったかとおもいまして・・・。」
笑いながら言うと
「我がメリアン妃と申すか、我が緑葉は無礼者よの。」
やはり笑って返す父上はいつもと変わらず安堵する。
遠くで自分たちを呼ぶ声がして宴の準備ができたのだとわかった。
「そういえばここに来たのもそなたに宴会の準備を手伝わせようと思ったからだったのだがな。」
まぁいい、と呟き腕をとられる。
「今宵は楽しめ。裂け谷へ参るからには長い間この森へは帰って来れぬだろう。」
隣の父上がなんとなく緊張しているのを感じた。
上古の先見の力で何かを感じたのだろうか。
きっと自分は裂け谷へ留まる事になるのだろう。
こんな時の父の予感は必ずと言って良いほど当たるのだ。
ならば。
甘えるようにその腕に擦り寄ると頭の上で父が笑う気配がした。
「まっすぐに己の信じる道をゆけ、我が子よ。」
不意にかけられた諭すような父の口調に表情を引き締める。
「そなたは我の子よ。良しにつけ悪しきにつけそなたには守るべき国民がまだいることを忘れてはならぬ。大いなる決断がそなたに迫ったとき、それをよく考えよ。」
先の先見の続きだろうか。
「はい、父上。」
「だが、そなたは自由な森の民の一人でもある。森は父に任せ、そなたは己の思う道をゆけ。」
「父上、それは・・・」
矛盾している。
その意図を傍らの父に問おうとした上を向くと、額に祝福のしるしを受けた。
「最後に我の元へ戻ってくれば、それで構わぬ。好きなようにせい。」
「はい、父上!かならず!!」
我ら、暗き森の民。
その闇に住処を覆われようとも、運命は然らず。
我ら、遠き西の光を見ずとも、
その輝きと希みを心から失う事はなし。
どこまでも、どこまでも己の信じる道を、ただ。
我ら、自由な森の子であるのだから。
[2003/07/30 || Written by あずや 様]
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