Distance
「では父上、私はこれにて下がらせて頂きます。」
朝食の席で、幾らか食べ物を口に運び終わると早々に立ち上がったのはかの森の末の王子。エルフ族の中では最も若い部類に入る彼も、今はもう青年と呼べる外見になっている。
父王・スランドゥイルは其方に頷きかけながらも、少々不審そうな目で己が王子を見つめた。もっともナプキンで口の端をぬぐい、その場を立ち去ろうとしていたかの王子はその視線には気付いていないのだが。
最近はこのような事が良く有った。初めの内はスランドゥイルも何かその日に限ってやりたい事でもあるのだろう、と思っていた。だがそれがこれ程何日も続くと…流石に何かあったのではないかと思わざるを得ない。
話がある、と自室に呼び出せば、待たせる事無くすぐにやって来るが、用事が済んだと思った途端に立ち去る。
さり気無く周囲の者に王子がどうしているのかを尋ねてみると、自分の許から下がって何処かへ遊びに行ってしまうという訳ではなく。むしろ王家の重臣達が右往左往していれば、その書類の整理等を手伝う事さえあるという。側近達が、助かりました、と笑っていたのは未だ記憶に新しい。
何か、あったのであろうか。昔は執務の際にでも、いつも我が傍に控えていてくれたものを。
自分も自室へと戻り、執務に向かう前に長椅子に座って小休憩を取る。
思いを馳せれば尽きることが無い。かの王子の心に変化を与えた原因は一体何であるのか…スランドゥイルは深く考えに沈んで行った。
「スランドゥイル様。」
軽いノックの音と側近の呼び声に思考を中断され、スランドゥイルはようやく顔を上げた。
「何用だ。」
不機嫌そうなその声音に、呼びに来たエルフは口ごもりながらも、執務の時間である事を告げる。
森全体を維持する為の執務…いくら思考の邪魔になったとしても疎かにする訳には行かない。ふう、と大きな溜め息をつくと、スランドゥイルは自室を後にした。
退屈な午前中が過ぎて。余り好きではない書類の決裁を半分ほど済ませると、スランドゥイルはテラスからふらりと外に足を踏み出した。どこか落ち着かぬ気配で執務室を後にする主に、側近達も声を掛けることはしない。
特に意図してはいなかったが、辿り着いた先はやはり末の王子の室の前で。自分が余程彼の事を気に病んでいたのだと思い知らされる。
一度、静かに息を吐き、それから扉を軽くノックした。
「緑葉、居るか?」
そっと呼びかけると、確かに中にいる気配があり。それに勇気付けられて、スランドゥイルは返事を待たずに息子の室に足を踏み入れた。
閉め切られた部屋。光の届かぬ森の中よりも更に暗く、寝台の傍に置かれた燭台の光のみが淡い光を放っている。
その灯りの下、彼の末の王子が寝乱れた寝台から慌てて起き上がった所であった。
「済まぬ、休んでおったか。」
間近で見る王子の姿が幾分かやつれているように見えて、スランドゥイルは思わず眉を寄せた。
「そなた、顔色が悪いな。…何か心に負担でも?」
エルフ族は少々の肉体的な負担では疲れを知らぬ種族。それをやつれさせているとすれば、やはり精神的なものであろう。
「何も…ございません、父上…。ただ、昨晩従者達と少々酒を過ごしすぎてしまったので…きっとそのせいでしょう。ご心配をお掛けして申し訳ありません。」
静かにそう言い訳する王子の表情は、とても二日酔いゆえのものとは思えなかったが、それ以上聞き出す事ははばかられた。短い沈黙が落ちる。
「…それよりも、父上。何か御用がお有りだったのではございませんか?」
僅かに目を伏せつつ向けられたその問い。聞き様によっては自分が早く室から去る事を望んでいるようにも聞こえる。いや…それは、考えすぎであろうか。
暫くの逡巡の後、スランドゥイルは漸く重い口を開いた。
「…父を避けておるか、緑葉?」
短く発せられた言葉に、緑葉の王子の肩がびくりと揺れる。
「そんな…そのような事は…」
小さく否定するその言葉は、かの父王には肯定も同然に聞こえた。
「無い、と申すか。現にそなたは滅多に私と同じ空間に居らず、こうして室を訪ねても目を逸らしているのに、か?」
激情に駆られ、思わずその細い両肩を力任せに掴む。形の良い眉が一瞬痛みに顰められたが、それでもレゴラスが抵抗することは無い。けれど視線だけはずっと下を向いたままで。
「答えよ、レゴラス。何故、私を避ける。」
掴んだ肩を少々乱暴に揺さぶっても、王子からの応えは返らない。
「答えるまで離さぬぞ。避けていた父とずっとこのままだ、それでも良いのか?」
そう言い募ると、伏せられていた王子の瞳が初めて上げられた。瞳が揺らめき、父王を見つめる。
「父上の事を嫌って、お傍を離れたのではございませぬ…それだけは、信じて下さい…。」
そのまま再び俯いてしまった王子の頭を、そっと自分の方に引き寄せる。その額に親愛の情を表す口付けを落としても、避けられる事は無い。
ならば、この口付けている場所を、ずらしたら?…例えば唇に。そして肩に、首筋に。我が王子はそれでも私に身を任せていてくれるだろうか…?
頭の中の声が囁くままに、思ったことを行動に移す。顎を持ち上げ、まずは触れるだけの口付けを。閉じられたままの相手の瞳を見つめながら、更にその唇を深く貪って。互いに息が切れて漸くそれを解放しても、その場所から抗議の言葉が発せられることは無かった。
そのまま、片手で夜着の合わせを開いていく。瞬間、びくりと震えたその肩を後ろから抱きしめて、首筋に唇を落としつつ囁きかける。
「父が、怖いか、緑葉。」
微かに早まっている息遣いの下で、王子はゆるゆると首を振る。
「いいえ、いいえ…、父上。」
返事に満足して、更に唇を下へ移動させようと思った時。
「失礼致します、レゴラス様。王は、こちらにいらっしゃいますかな?」
この森に仕える古参のエルフの一人が扉の外から声を掛けてきた。思いがけぬ闖入者。この室に入った時、鍵を掛けるのを忘れていた事を今更ながらに悔やんでしまう。
腕の中の王子は、何も答えられずにおり。扉の外の彼は返事を待たずにそっと扉に手を掛けた。
「邪魔立て致すな、下がっておれ。」
寝台の上の二つの影を見て、はっと息を呑むそのエルフに、スランドゥイルの鋭い声が飛ぶ。
「しかし王、分かっておられる筈です、その様な事は貴方にも、緑葉の王子にも、苦しみを与えることになる。」
そのエルフの諫言に、スランドゥイルは今度は穏やかに溜め息をついた。
「そなたも分かっている筈だ、無かった事にしていつまでも忘れたふりをしておける類の感情ではないと。緑葉に私と距離を置くようにと進言したのはそなたか?」
困ったように頷く戸口のエルフに、スランドゥイルはじっと視線を投げ掛ける。
「そなたの忠告は正しいのかもしれないが。遅かれ早かれこうなるであろう事、分からぬ訳ではないだろう?」
スランドゥイルの言葉に、そのエルフは静かに踵を返すと、室を後にした。
思わぬ所を他人に見られ、身体を強張らせて恥らっている王子の背をそっと撫でてやる。
「もしかしたら、とうに気付いていたのかも知れないが…私はそなたに、父親として以上の感情を持ってしまった。受け入れて、貰えようか…?」
レゴラスは無言のまま身体を反転させ、スランドゥイルの背に腕を回した。
「…少し前から、もしかしたら、と気付いてはおりました…でも、父上の気持ちははかりきれなくて…何より、怖かったのです、もし間違っていたら、と…。」
恐らくそんな時に古参の重臣の忠告を受け、その言に従ったのだろう。
「こんな感情は初めてで戸惑ってはいたけれど、父上が私と同じお気持ちだったなら、とずっと願っていました。」
小さく告げられた言葉に。スランドゥイルは顔をほころばせる。
「愛している、私の緑葉。」
そう告げると同時に再び合わせられた唇は、酷く甘美な香りがした。
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