蛍火 -KEIKA-
こんな風にこの命を閉じられるなんて 思ってもみなかった
限りある生命 最期まで燃やそうと決めてはいたけれど
存在が消える瞬間はきっと独りで迎えねばと
今の私にはもう 貴方の背に腕をまわす力さえも残ってはいないけれど
貴方に身体ごと余す所なくこうして力強く抱きしめられることが
こんなにも心地良いなんて
何も考えられず ただ幸せだけが心に満ちる
やはり貴方は希望だった
死に出の旅路さえも照らしてくれる光
愛している ずっと貴方を
肉体という入れ物が消えてしまっても
この魂を現(うつつ)に宿して ずっと貴方の傍に在ろう
* * *
「良かった―――。」
血塗れになって洞窟の岩肌に倒れ伏しながらも、村正の瞳が此方を捕らえる。
「この伝承は私にとっても賭けでした。貴方が耐えてくれるか…そして私自身の身体も耐え得るか…悲願が叶うか、潰えるかの。まだまだ荒削りだけれど、でも、伝承は済みましたね。」
それはまるで、別れの挨拶。
限界まで休まずに、常は柔和な光をともす双眸に厳しい光を湛えて伝承に臨んだ村正の瞳の光がすうっと遠くなる瞬間。
―――逝くな、逝かないでくれ。
心に想ったことは、きっとそのままに師に伝わっている。
それでも此度ばかりは決して俺の願いが叶えられることは無い。
「あと少しは…この身体も原型を留めておけます。…連れて、帰ってくれますか、狂…あなた方の出立を見送ってから消えることが出来る様に。」
かれは独りで逝く気なのだと、言葉にされずとも伝わった。
皆に心配を掛けぬ様にと最後の最後まで気を遣って。
「…ああ。」
俺にだけは見送らせてくれと、最期の瞬間まで傍に居させてくれとそんな言葉を呑み込んで短く肯けば、”頼みましたよ”と微かな声が告げて、村正の四肢から力が失われた。
”あと少しは”と言った村正の言葉は確かだった様で、ほたるとの一戦の間にその玉の緒が切れる事もなく、あの後一昼夜は寝たきりの状態だったものの、三日経った頃には枕元を訪れた者と言葉を交わし、少し離れた場所にある真弓の墓にさえ参っていた。
表情は全てを包む大気の様に穏やかで、ふっと無明神風流という武技はこの師そのものなのだと思わずにはいられない。
「…狂…?」
ふっと此方を振り返った村正の頬には淡い微笑。
「…今夜発つ。」
たった一言を告げるのが苦しかった。
辰伶の水龍に人質を取られている今、此処でゆっくりと時間を過ごす訳には行かない。
そしてあの洞窟での言葉通り、師が皆に死に顔を見せるのを良しとせぬのだとしたならば、今が潮時であることも知っている。
それでも…発ったならば、それが永久の別れ―――二度とこの微笑が自分を迎えてくれることは無い。
「見て下さい、雲ひとつ無い空です。たとえ貴方の途が星明りに照らされるものだとしても、出発には良い日和ですよ。」
僅かな沈黙の後に村正が投げ返して来たのは、明るい声音のそんな言葉。
「見送らせて…下さいね、狂。」
ああ、と答えておいてやはり言葉にならぬ感情が胸を満たした。
俺が立ち去った後、村正は彼にとって多くの思い出のつまったこの屋敷でただ独り死の訪れを待つのか。あるいは再びやって来るであろう壬生の名も知れぬ刺客の手に掛かってその生命の華を散らすのか。
「心配せずとも良いのですよ…客人を見送ったならば私も今宵の星明りに向かって旅立ちますから。」
静かに告げられた言葉は謎掛けの様でいて、その意味は明らか。
人が死ぬと失われたその生命の輝きは星になるのだという…昔村正自身が俺に語った寓話があった。
「もう、もたないのか。」
言うつもりでなかった一言がぽつりと零れて、村正が困った様に首を傾げる。
「…今夜が、限界でしょう。だから…もし貴方方がまだ出立せぬのならば見苦しい姿を曝すことになるだろうと内心気掛かりだったのですよ。」
別れが近いと、それももうごく間近なのだととうの昔に分かっていたつもりでも、心中に動揺が渦巻く。
師が現の姿でこの世に在る時間は…もうあと数刻しか無いのだと。
最初はまだ餓鬼でかれに手を引かれていた俺が、いつの間にか成長してかれの背を越えた。
武術を習って毎日を過ごすうちに、いつしかかれに師として以上の感情を抱くようになって…そうして今宵、かれの最期を、為す術も無く受け入れねばならぬ。
「狂。」
ぎこちない仕草で腕に触れて来たその身体をそのまま引き寄せて抱き締めた。壊れ物を扱うように優しく、しかし万感の想いを込めて。
衣服越しに伝わって来る互いの温もりが言葉よりもずっと多くを語ることを知っているから。
村正と共に居る時はさして珍しいことでもなかったが、無言のまま随分と長い時間が過ぎて、共に館へと引き返したのは太陽が夕陽に特有の赤みを帯びてきた頃だった。
帰る道すがら、まるで餞別の如く語られた言葉が、耳に深くしみ入る。
多くの言の葉ではなくとも、僅かな音の中に師の万感が込められていたのであるから、当然といえば当然であったろう。
戸外が暗くなり始めた頃、暇乞いをする梵やチンクシャを相手にふっと真剣な表情を浮べた師が言った言葉は、既にいつの頃からか漠然と己が知っていたこと。
―――そして、村正が望むことは…俺の望むことにもなっていったのだ。師に果たしきれぬ願いがあるのならば、それを俺が叶えてみせようと、そう思った。
だから、それを罪だなどと抱え込まないで欲しい。俺は、自身で望んでこの生き方を決めたのだから。
「お前ら…先に行っとけ。」
直前になって漸くその一言が口に出来た。自分は村正の旅立ちを見届けてから発つのだと、そう決心がついた。
そうと悟ったのだろう、梵天丸が助け舟を出して俺に別れの時間をくれたことが今は有難い。
同時にはっとした様に師の肩がびくりと震えたのが見えた。
既に砂の城の如くさらさらと崩れ始めている身体。
もう既に一刻の猶予もありはしないのだろう。
「…誰でも生まれて来る時と死んで行く時は独りきりだというのに、貴方に見送って貰える私は幸せですね。」
小さく呟く彼を、加減など一切せずに力の限り抱き締める。
徐々に希薄になっていく存在を逃すまいとするかの様に。
『―――狂…幸せになって下さい。私はずっと、貴方の傍で見守っていますから…。』
それが、言葉を発することすらままならなくなった師が最期に残した念だった。
『私はずっと、貴方の傍で見守っていますから…。』
その言葉を肌で感じることが出来たのは、あれからずっと後、『妖刀村正』をこの手で操った瞬間。
刀匠村正の最高傑作と言われる四本の刀…秘められた最後の一本『妖刀村正』の内に棲むものは竜でも狼でもない、剣聖と讃えられたあの師自身の魂だったのだから。
普段俺が作り出すものとも、そして京四郎が作り出すものとも比較にならないほどの雄大な大気が刀から発せられたその瞬間に、勝負は既に決していた。
『狂』
今もかれの声が耳の奥に蘇る。
『…ありがとう。』
技を命中させて刀から発せられた淡い燐光がおぼろげになった時、俺の許へ届いた弱い念は、気のせいではないだろう。
肯き返す代わりにぐっと力を篭めて握った刀の柄は、ただの冷えた金属の塊ではなく仄かな熱を残していて、まるで今は亡きひとの置き土産の様な、とそう思わずにはいられなかった。
◇ 後記 ◇
[残月]の貴志ゆう様の素敵な狂村イラストを拝見してふっと頭の中に浮かんだ話を文章に起こしたもの。貴志様のサイトは既に閉鎖なさいましたが、狂に強く抱き締められた村正様の麗画は未だに瞼の奥に焼きついて残り続けています。
2004/10/30 Shisui Gagetsu
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