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残照-ZANNSHOU-

004:キス





 見知らぬ建物とは言え、空気の匂いを辿れば下へ降りるのはそう難く無い。
 それでも人に見つからずに動くのは難しいかと思っていたが、『闘牙』が人払いをしておいたのか、あるいは建物の中に残しておくほど人員がいなかったか、清潔に整えられた廊下は無人のままがらりとしていた。
 血の匂いは、せぬ…乱闘にはなっておらぬという事なのだろう。

 足を早めつつ先を急ぐと、どうやら目的地に近付いた様で、さほど大きな声ではなくとも剣呑な空気で言い争う声が耳に届いた。

「どう言い逃れるつもりか知らないが…被害者は明らかに銃殺されている。捜査にはあなたにも当然ご協力頂く形になるでしょうな。」

 聞こえてくるのはそれなりに年代を経た男の声。―――少なくともこの声には…聞き覚えは無い筈…。

「残念だが私も忙しい身なのでね。何か用事があるのなら手短に頼もうか。ああ、司法解剖の書類にならサインはしますよ。しかし此度の事件は私に関わりの無いこと…うちも休暇中の部下を殺されて不快な思いこそすれ、調べる手立てがないのですから。」

 こちらがあの『闘牙』の声か。低く強い調子で発音されている言葉には、相手に反論を許さぬ威圧感がある。
 たとえその口にしている内容が真実とは異なるものだったとしても。

 様子を窺いつつ近付いた私の気配に、恐らく『闘牙』も、そして彼と対峙している連中も気付いているだろうと察した瞬間、それを示唆するかの如くに声が放られた。

「階段の方に誰か居ますな。貴方が裏から手を廻して部下を配置したのですかな。」

 ―――違う、私の行動は私の一存…彼とは何の関わりも無き事。けれど、もしもこの場で乱闘となったなら、私は彼を護るだろう。
 互いにその姿がその視界におさまる位置へするり、と身体を移動させれば、『闘牙』を取り巻く男達の表情には明らかな驚愕が漂った。
 …余程この髪や瞳の色が珍しいというのか。

「ほう、これは…ただならぬ気配の方だと感じましたが…どの様なご関係の方で?」

 言葉付きだけは過ぎるほどに丁寧に、警戒を怠らぬ様子で問うてくる彼らとは対照的に、『闘牙』は口の端にふっと笑みを浮べて余裕の表情。

 ”関係”を明かせと問われて、漸く初めて『闘牙』が私に部屋から出る事を禁じた訳に納得が行った。…いや、むしろ今まで其処へ思考が及ばなかった己が情けなく思える程に。
 昔から己の感情の波を悟られぬ様に隠す事は得意だったゆえ、よもや一瞬の内に相手方にそれを読まれたとは思わないが。

 どう、誤魔化すつもりだろうか。
 異形の姿、妖の能力、そうして存在のあまりの不自然さ。調べられたなら、言い逃れる事は難しいだろう。
 …ああそれとも、いざとなったら事故現場で出会った不審な者として引き渡してしまえば良いだけの話か。この男にとって私など、元々は何の関係も無い相手なのだから、何もわざわざ労を呈して庇う必要はない。

 再び『闘牙』へと向けた私の視線は、しかし彼の瞳を捉える事はなく、ただその足が規則正しい靴音を刻んで此方へと近付いて来る姿を見た。

「…野暮な事をお聞きになる。これは最近私が気に入って目をかけている者ですよ。この建物が私の私的な住まいの一つだという事は先刻御承知の事と思うが。」

 微かに歪められた口許から低い声音がそんな台詞を呟くのと、遠い昔に当たり前の日常の如く慣れていた感覚が己の唇の上に落ちて来るのが同時だった。
 現実の感触と過去の記憶との狭間で恍惚とする陶酔感の後から、彼の発した言の葉の意味が思考に落ちて来る。

 ”最近私が気に入って目をかけている者”―――つまりは、彼の愛人か何かとして紹介をされたという事。

 再び疑問が胸に迫り来る。
 それは彼らの追求をかわす為の単なる方便であるのか、あるいは…まこと信じられぬ御伽草紙の様だが、貴方は本当は父上の生まれ変わりで、少なからず私に対するそういった感情を覚えておられるのか。
 …もしそうならば、似過ぎた容姿も声音も全て納得が行く。

 はっとしたまま動きを止めている殺生丸に、『闘牙』が更に激しい戯れを仕掛けて来る。

「外に出るなと言っただろう?余所者にそなたの美貌を見せたくはない。」

 囁く言葉は恐らくは演技。かつての父とも、この世界へ来てからの『闘牙』の様子とも異なる甘過ぎる声がそれを告げている。
 果たしてこの演技に応えるべきなのか否か、とそれを迷い始めた時、周りに居た男達が苦々しげに舌打ちをした。

「宜しいでしょう、何の証拠も掴めない以上今日の所は我々が引きましょう。また伺わせて頂きますよ。」

 頭であろう男がそう呟いて建物から出て行くのと、不意に力強く腕を掴まれるのが同時だった。


[2004/10/08]





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