雪月華PROLOGUE * SIDE-Sesshoumaru
” 寒月の宴 ”
物心ついた時には、既に父と母は不仲であった。―――別にそれが悪いとも、哀しいとも思いはしなかったけれど。
ただ、ある時期を境に母は酷く余裕が無い態度を露呈する様になって。
『あの方を失望させぬだけの強い妖力を身につけておおきなさい。…この母の子であるという誇りを、忘れずにいておくれ。』
それが、記憶にある母の最期の言葉。
その頃はもう、彼女の意識はある種の狂気に蝕まれていたのだろう、日に何度も似たような意味合いの台詞を聞く事はさして珍しくもなかった。
強い力を身につける事に不満など有りはしない…むしろ、母の言葉が無かったとしても私は妖の常として最強の力を求めたろう。
耳に引っ掛かるのは母が『あの方』と呼ぶその相手―――私自身の父。
滅多に会う事も無かったが故に、記憶に残る姿は曖昧…背高い精悍な後姿が曖昧に蘇るだけであった。
母が水の宮から姿を消した日、『ああ、来るべきものが来た』と感じたのは何故だったろう。
長くは続かぬ、細長い糸が重さに耐えかねてぷつりと途切れた様な印象を受けて、何も聞かされぬうちから母の死を魂の何処かで感じていた。
心を満たすのは肉親の死への哀しみよりも、ただ空しさだけで。
母が死んだ今、どうするのが最良であろう。
元々母の着物の裾に隠れて生きて来た訳では無い、このまま屋敷の外へ出されても何とか生きていける自信はあったけれど。
がらんとした宮の中に何とも身の置き場を見つけられずに、建物内では最も落ち着いた気分を与えてくれる書庫へと入り浸った。
空気の流れが変わったと感じたのは、翌日の朝日が昇ってからのこと。
何があったのかとぼんやりと振り返った先に、記憶にある曖昧な姿と良く似通った鼻梁高き顔立ちがあった。
(父上が自ら此方へおいでになられたのか…母上の訃報を知らせに来られたか、もしくは私の処遇を言い渡しに来られたか…)
頭の中を冷静に思考が駆け巡り、特に考える事も無く幼い頃より躾けられた通りに父の前に礼を取る。
「御久しゅうございます、父上。何か御用が…?」
口上を述べる自分の声がまるで他人のものの様だ。
父の瞳が一瞬意外なものを見るかの様に細められたのが分かった。
「いや、ああ…お前の母の事で、報せに来たのだ。」
やはり、ですか。…この身に備わる第六感ともいうべき物が伝えて来た通りだったと云う訳なのですね。
「……母上が、どうかなさいましたか……?」
広がった気まずい沈黙を打ち破るには、そんな陳腐な言葉しかありはしなくて。
視線を合わす事は出来ずにそのまま父の説明に耳を傾けた。
恐らくはじっとこちらを見つめているであろう父の視線を、まるで懺悔の様にも感じる。
母上を…愛せなかった事、悔やんでおいでなのでしょうか…?
けれど感情は理性とは別に湧き上がるもの…確かに私とて父上の愛人であるという人間の女や、彼女の腹から生まれたという半妖の弟の事を考えれば落ち着いた気分ではいられませぬが、反面諦めてもおりますのに。
母をかばって父を恨む気持ちなど、初めから有りはしなかった。
不意に柔らかく手に触れられて、初めて知る感触に我知らず心が震えた。
大人の男の精悍さを湛えた微かに骨張った手つきは、今も私の手よりは一回り大きくて。
「…まだ、何か…?」
間が持たなくなって尋ね返した言葉は、酷く上ずっていたかも知れない。
『今まで通りにこの宮で暮らすがいい、来たければ本殿に渡るのもお前の自由だ。』
それが、久方振りに水の宮を訪れた父王の指示だった。
つまりは好きにして良いということ―――亡き母への負い目にも似た物が、忘れ形見である私にこうして情けを掛けさせたのかも知れない。
それでもわざわざ本殿へ行く用事も大して無くて、結局はこれまでと変わりなく水の宮に篭る事が多かった。本殿へ行くにしても、極力人と行き交う事の無い時刻、父とも出会いそうにない時刻を選んで―――別に父が嫌いであったからではなく、ただ顔を合わせた際にどんな言葉を交わして良いか分からなかったが故に。
それがふと本殿にある馬場に出向いてみようかと思ったのは、ほんの気まぐれに過ぎない。
水の宮の鍛錬場は母の生前から美しく整えられている上に他に使う者も居ないので静かで集中出来る環境ではあるが、本殿のそれの様な広さは持たなかったから、たまには広い場所で妖力を高めてみたいと思ったのかも知れない。
丁度その日、本殿で宴があるらしのだと邪見が小耳に挟んで来たのも一つの大きなきっかけであったろう…宴の最中になら、馬場になどやって来る物好きは誰も居らぬだろうから。
凍りつくような月の光のさやけさに、細長い刀身がきらりと光る。月光が己の中に眠る妖力を呼び覚ましてくれる様な気さえして、ただ無心に剣を振ること数刻にも至っただろうか。
同じ動作の繰り返しは、不意に生じた金属音と、そのまま風を斬る筈だった刀身が何かに軽く弾き返されたことで打ち止めを迎えた。
はっとした瞬間に視界に入って来たのは、己と同じく月光を一杯に浴びた父の姿。
こうして武器を持って対峙してみると、その妖力の強大な奔流が痛い程に伝わって来る。
「…剣の稽古を、していたか。」
ああ…何という事だろう、肉親の情など求めてはいけないと分かっているのに、父にこうして短い言葉を掛けられただけでこんなにも心が歓ぶ。
続く言葉で『仕合の相手をしてやる』と言われたなら尚更の事だ。
―――母上に対する負い目ゆえでも構わぬ…今この瞬間、父上が私を視界に入れて下さっていればそれでいいと思ってしまう程に。
けれど、今私が使っているのは一振りの真剣。
鍛錬用の物とて、人間達の様に木刀を用いたり、刃の先を潰す様な事を私達妖怪はせぬ。一つ間違えば傷を負いかねぬそれを父に向けるのは、不敬に当たりはしないだろうか。
私の言葉を汲み取ったかの様に構わぬと告げられたついでに、父はふと思いついたかの様に意外な事を口にした。
「折角だ、ついでに賭けでもしてみぬか…?」
―――賭け。
およそそういった物とは縁遠く見える存在からそんな提案を持ち掛けられて、戸惑いを隠しきれない。
「勝者が敗者の望みを一つ叶えるのだ。」
経験の差から言っても、まともに行けば仕合に勝つのは父上であろう。…とすれば私に何かお望みになりたい事があるのであろうか。
それとも何らかの形で私に勝ちを譲り、私の望みを聞き出したいと望んでおられる…?
いずれにしても、私に否やは無かった。
いつの頃からか分からぬ、幼い頃母に命じられた訳でも何でも無いけれども、私にとって父上は絶対的な存在であったのだから。
「…父上が、そうお望みなのであれば。」
私の言葉に父上がほんの少し口の端を上げて笑ったのは、私の思い違いでは無かっただろう。
賭けの、結果は―――言うまでも無く私の負け、であった。
互いに睨みあいを続けていた時間は、心地良い緊張感が肌を包んで。けれど、やはり父の剣は一手一手が随分と重たくて、打ち合ううちについに得物を跳ね飛ばされるのを防ぐ事が出来なかった。
「良い剣筋だ、いつの間にその様に強くなったのかと驚いたぞ。」
己がまだまだ遠く父の強さには及ばないのだと実感しながらも、穏やかな声音で掛けられた父の言葉が酷く嬉しくて。
それでも小さな子供の様に喜ぶその感情を父に気取られたくは無くて、平静を装って再び身体を低くして礼を取る。
「手合わせに感謝を致します。賭けには…何をお望みでしょうか。」
父が私に望むもの…一体それが何なのか想像が付かなかった。
私が父上に差し上げられるものなど限られているし、命令ならば賭けなどせずともただ一言命じて下されば私に否やは無い。
父上は暫しの間無言のまま私の顔を見つめて。
その目の色が酷く不思議な色彩を醸し出していた事が、鮮明に記憶に残っている。
「…今宵の宿りを。半刻の後にそなたの室を訪ねる。」
何と、仰った…?
文字通りに受け取れば、今宵父上は水の宮にお泊りになると…けれど元はと言えばあれは父上のもの…改めて私に望まれずとも良さそうなものなのに。
―――それとも、その言葉には別の意味が含まれているのだろうか。
父上はその後暫くの間じっと私の顔を見つめて、ふいに静かに身体の向きを変えて先に母屋へと戻って行った。
―――父上の真意は未だ知れぬ。
…けれど、あの様に仰ったからには水の宮を整えねばなるまい。
宙を蹴って湖の上空を渡れば、この胸の内の高揚感など知らぬ気に静まりかえった湖水がきらきらと煌いていた。
半刻というのは、短いようで思ったよりも長い時間。
剣を振って出た汗を軽く湯殿で流して、自室に戻って身支度をしても、まださして時は移ろっていない。
気分を落ち着けようと書物を手に取るも、あまり集中する事が出来ず、結局殆どの時間を庭に植えられた木々を眺めることで過ごした。
「…殺。」
閉じられた襖の向こう、廊下の思ったより近い場所から父の声がそっと私の名を呼ぶまで。
ぼんやりしていて一瞬反応が遅れた私よりも先に、父は襖を自らの手で開けて室に入って来て、軽く室内を見回した後どっかりと腰を下ろした。
「先程私が申した事の意味を…?」
軽く言葉を交わした後、父は単刀直入に本題を口にする。
どう、応えるのが良いのだろう…?
もし、あの言葉に何か別の意味合いが含まれていたならば、それに気付いてもおらぬ私は父上を失望させてしまうであろうから。
けれど…どんなに考えを廻らせても、言葉通りの意味以外が私の胸に落ちてくる事は無かった。
「…水の宮に御寝所を、とお望みなのでは…?」
自信の無さが、問い返す音量を小さくする。
と、不安に思い始めた私の目を父の瞳がじっと覗き込んだ。微かな笑みを含んだ視線ではあったけれど、その中に葛藤のような物を感じたのは私の思い過ごしであったろうか。
「そうとも言えるし、違うとも言えような…。」
意味深な言葉と共に父の武骨な指が私の顔へと伸びて来る。
あっと思う間も有りはしなかった、次の瞬間には身体ごと引き寄せられて唇を熱い感触に覆われていたのだから。
―――知りませぬ、この様な感情も、行動も。
これまで私が生きて来たこの箱庭には存在しないものだった。
それでも、知識としては知っています…父上、貴方がなさった行為の名前も、それからどういう時にそれが為されるのかも。
―――けれど貴方は私の実の父親。そういう対象にはなり得ないのではないのですか…?
「…賭けの望みの、真の意味だ。今宵一晩、父と同じ夢を見よ。」
”今宵の宿りを”…それは即ち、一夜の閨の相手をせよという意。
…ああ、だから『賭け』なのか、とぼんやり思う。
不思議と嫌悪感は感じない…ただ、肌の奥まで見透かす様な父の視線と、先刻の口付けに勝るとも劣らぬ勢いで首筋を吸われて、体中が未知の熱に浮かされるのが恐ろしかった。
「怖いか、殺。…この様な事をする父が恐ろしいか。」
―――低い、声。
その音声が注ぎ込まれた耳から体中へと熱い痺れが伝わって行く。
「恐れるな、すぐに何も考えられぬ程の悦楽をお前に与えてみせよう。」
それがこの夜、私の意識に残っている父の最後の言葉だった。
身体中に、普段は秘された場所にさえ愛撫を施す父の手指は、繊細で、同時にとても荒々しくて…その言葉通り私はすぐに何一つ考える事を放棄せざるを得なくなってしまったから。
自分のものとは思えぬ様な嬌声や悲鳴を止める事が出来なくて、このまま啼き殺されるのではないかとさえ思った時、後ろの深い場所へあるべきでない感触を覚えて。
必死で痛みに耐えながら、何とか醜態を晒すまいと必死だった。
突き上げられる律動と共に確かな快感を覚えさせられた頃には、夜は白み始めていたのかもしれない。
そのまま気を失って…目覚めた時には昨夜の名残はもう何も残ってはいなかった。ただ、この身の奥深くに残る鈍い痛みの他には。
陽の差し込み始めた室内に父の姿は無い。
…元々一夜の相手にとお選びになっただけ…朝まで居て下さるかも知れぬと下らぬ望みを抱いてしまった自分が苛立たしかった。
その日を境に特別に何かが変わったわけでもなく。ただ、夜になると奇妙な感情が私の胸を帰来した。
―――今宵、父上は何処に…?あの時の激しさでもって、どこぞの女に愛を囁いておられるのだろうか…。
…私は何を考えている…?
父上がどこの誰と睦もうと、私の干渉すべき事では無いだろう?
それなのに、この胸の痛みは一体何―――今は亡き母君よ、貴方はこの痛みに耐えておられたのか。
そんな感情と共に、疼く様な感覚を呼び起こすのは、意外にもあの夜明け、痛くてならなかった箇所。
…まるでもう一度あの痛みを感じたいとでもいうかの様に。
再び夜半に父の訪いを受けた時、私は逆らう事さえせずにその力強い腕の感触に酔わされた。
そうして時折足を運び始めた父の訪れを夜毎待つようになった自分の姿は…まるで妻問い婚の妻の様で、情けなく思いはしたものの、どうする事も出来ずに。
―――助けて下さい、父上。
どんなものでも良い、貴方との繋がりを失いたくないと望んでしまう事は、罪なのでしょうか。
愚かな事を、ただの遊びよとお思いになるでしょうか。
そうかも知れぬ、色事などとは全く縁遠く生きて来たのだから、父から少し濃厚な遊びを教えられただけで夢中になってしまったのやも知れぬ。
…ああ、愛して下さらぬのなら、どうして放っておいては下さらなかった?
* * *
植えつけられた感情が静かに花開くのは、まだ遠き先の話。
春、夏、秋、冬…いくつもの季節が過ぎ去った後の、遠い未来の物語。
明けぬ夜は無く、終わらぬ冬も無い。
凍えた季節は、新しい息吹の為の序章に違いないのだから。
2004/06/17 Shisui Gagetsu
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