月蝕
星の廻りの悪戯で、欠けること無き月の光も衰える事がある。
それは年月を経た大妖怪でさえ、避ける事の出来ない事態。月が弱まれば、妖力も弱まる…ほんの一時のこととはいえ。
一時の弱さを、誰にも悟られてはならない。『強くあること』―――それが妖怪たる存在の不文律なのだから。
『―――それでもな、殺。誰か一人くらいは…弱さを打ち明けられる相手が、互いに守りあえる相手が出来ると良いなあ…。勿論父を除いて、だ。私はお前を愛しているが、如何せんお前より先に黄泉の旅路を辿ってしまうからな。』
生まれて初めて”妖力の衰え”を感じた夜、肩を抱き寄せつつそう言った大妖怪は既に亡い。
そう、あの時の言葉通り、彼はその寿命を全うして現世を去ってしまったから。
「奇妙な匂いがしやがる。殺生丸の匂いに似てるが…なんだ、この匂い…いつもと何か違うぜ…」
今宵の宿と定めた民家の離れに腰を落ち着けながら、不意に犬夜叉がその鼻をひくひくさせながらぼそりと呟いた。流石犬の妖怪と言うべきか、随分と敏感な反応である。
「何か言いましたか、犬夜叉。」
ふとその呟きを耳に留めて問い返したのが弥勒…本当に出家しているのかと疑いたくなるほどの不良法師だ。
「…何でもねえよ。…ちょっと出掛けてくらあ。」
ぼそりと呟いた犬夜叉の背を、一行は怪訝な顔をしながら見送った。
「どうしたんだろうね、犬夜叉。」
「ね、いつも能天気を絵に描いたような性格のあいつにしては珍しいわよね。」
顔を見合わせて辛辣な台詞を吐く女性陣二人は、火の側に陣取ったままだ。
「ああ…ええと、私もちょっと出掛けて来ます。かごめ様を頼みましたよ、珊瑚。」
暫くは大人しく室内に留まっていた弥勒だったが、奇妙な胸騒ぎがして行き先も分からぬまま犬夜叉の後を追ったのだった。
近付けば近付く程色濃くなる匂い…しかしやはり常のものとは大いに異なる。あの兄が、一体どうしたというのだろう。
岩から岩へと飛び移って近道を行けば、程無く大樹の根元に腰を下ろした白銀の姿が視界に入った。別段変わった様子は無い…邪見という小妖怪やりんという人間の娘も殺生丸の近くにじゃれつく様にして休んでいる。
「よう。」
随分と側まで近付いてから声を掛けた犬夜叉に、殺生丸の肩が不意にびくりと揺れた。
「…なんだ、お前か。」
鋭い光を湛える黄金色の瞳は同じであれど、…この、返事は。―――常とは異なる…?
「…今日は貴様と遊んでやる気分ではない、早々に立ち去るのだな。」
いや、そもそもこの兄に『遊んでもらった』覚えがあるのかどうかは置いておいても…殺生丸があからさまに『立ち去れ』と言う事はこれまで無かった。いつも僅かに言葉を交わして、その後連れの二人を連れてあっという間に姿を消してしまうのは殺生丸の方であったから。
―――あるいは、立ち去りたくないと思うほどにこの場所が気に入っているのだろうか…?それとも休んでいる連れの二人を気遣っている…?
「…どうしたんだよ、てめえ、普段はそんな事言わねえだろ。」
思わず言い返した犬夜叉に、兄は軽くその柳眉を寄せる。
「…さあな。」
だが、そう言ったきり再び睫毛を下ろしてしまった兄の注意を引こうとすぐ側まで寄ってみて、犬夜叉は驚かざるを得なかった。
当然鋭い爪か、あるいは鞭が襲ってくるものだと思っていたのに、予想に反して兄はぴくりとも動かずに、犬夜叉がその肩に触れた瞬間にびくりと又目を開けたのだ。…そう、触れられて初めてその気配に気付いたとでもいうかのように。
「…な…立ち去れと言った筈だ。」
低い台詞が随分と動揺を押し隠した弱弱しいものに聞こえるのは俺の気のせいか…?
「立ち去らなかったらどうするんだよ。」
半ば言い返しに近い勢いで発した言葉は、目の前の兄の表情を瞬時に凍らせた。
「…兄の言う事が聞けぬのか。」
事も有ろうに…誇り高きこの大妖が自身を『兄』と呼ぶなど何十年振りであることか―――いつも半妖の犬夜叉が自らの弟であるという事すら認めたがらぬというのに。
いや、そうまでしても自分をその場から遠ざけたいと、そういう事なのだろうか。
「聞けねえよ。…どうしたんだよ、殺生丸、匂いも何だかいつもと違う…」
少しいらいらとした気分になりながらそう言い募る犬夜叉の唇に、不意に白く細い指先が触れる事で動きを止めた。
「それ以上口にするな。…何が望みだ。」
それはまるで、敵と対峙した折の駆け引きの様。犬夜叉が匂いを通して察した事を口止めする代わりに望みを叶えようというのだろうか。
「…別に、そんなつもりじゃねえ。でもこのままじゃ、気になってしょうがねえからよ、何があったのか教えろよ。」
珍しく奈落の野郎に一杯食わされでもしたのか、それとも何処か身体の調子でも悪いのか…頭の中に浮かんでくる選択肢は、どれも外れの様な気がする。
瞬きすらせずに見詰め合う事数瞬の後、殺生丸は漸く身体の力を抜いて元々寄り掛かっていた木へとその身を預けた。
「何でもない。…お前には何の損にもならぬ話だ。ただ、そういう時期が久方振りにやって来ただけのこと…。」
『そういう時期』ってどんな時期だよ、と思わず音に出しかけて、まるでその思考を読み取りでもしたかの様に殺生丸が緩く首を振るのが目に映る。
「分かっているだろう、お前も我らの一族の鼻を持つのならば。お前にとっての朔が…私にとっての今宵だ。もっとも月に一度来る訳では無いし、今宵は満月だが…月の光が弱まる晩に私の妖力も弱まる。」
それが兄の額の刻印に何らかの関係があるのか否かは、聞ける空気では無かった。
いや、それよりも…俺の『朔』のことをこいつは知っていやがったのか…。
「知ってたのかよ。」
短く呟いた言葉には『当然だ』と彼らしい簡潔な応え。
「だが…これであいこだろう。」
ああ、互いの弱点を知ったという事か。
それは本来ならばあまり歓迎すべきではない事柄の筈なのに、何か秘密の共有めいていて心が浮き立つのは何故だろう。
「…お前の好奇心は満たせた筈。…早く行け。」
再び瞳を閉ざしてしまった兄の唇から漏れるのは、ただただ出立を促す言葉で、残念に思うのを隠せない。
「行かねえ。お前、今夜奈落か何かが襲って来たらどうする気だよ。」
こんな事を言ったなら彼はそれこそ強硬に自分を帰そうとするだろうけれど。
「お前と一緒にするな、犬夜叉。出会い頭にお前に攻撃を仕掛けなかったのは出来うる限り妖力を身の内に残して置きたかったからだ。このような晩とて…己の命と連れの安全くらい、この身一つで十分守れる。」
案の定、殺生丸の返事は普段通りの隙の無いもので、その瞳には一種挑戦的と取れる光さえ浮かんでいた。
…と、その時。
「まあまあ、兄上殿。犬夜叉は兄上殿と一晩一緒に居たい様です。勿論この私もそうしたい気持ちで一杯ですが…如何です、今宵一晩、護衛を付ける気分を味わってみられるのは…?」
小高い丘になっているこの場所へと登ってきたのはしゃらんと錫丈を慣らしつつ歩いて来た弥勒。
「なんでえ、てめえも来やがったのかよ。殺生丸の護衛如き、俺一人で十分でえ。」
「何を言うのです、私の助言が無ければお前など一瞬後には兄上殿に追い払われていたのでは…?」
寝ている殺生丸の連れを気遣って音量を抑えてはいるものの、途端に始まった二人の口論に殺生丸が気だるげに眉を潜めた。
「…もう良い。りんが起きるだろう、静かにしてその辺で夜を過ごすか、二人一緒に仲間の元へ戻れ。」
その言葉を合図に犬夜叉と弥勒はぴたりと言い争いをやめて殺生丸の両隣に陣取るのであった。
真夜中までは、特に何事も無く時間が過ぎた。
殺生丸は瞑想でもしているかの如く一言も言葉を発さなかったが、犬夜叉や弥勒にとっては誰に見咎められる事も無くその白皙の美貌を堪能出来る貴重な時間である。
―――やがて木の幹に預けられていた筈の殺生丸の頭がことりと犬夜叉の肩へと倒れ掛かって来たのならば尚更。
「…犬夜叉、お前…。」
「…何だよ。」
「私と代わりなさい。」
「やなこった。」
「何だと、てめ…」
「うるせえ、殺生丸が起きちまうだろ。」
両脇で小声の遣り取りを始めた二人の声にすら何の反応も無く、殺生丸は静かな寝息を立てている。
―――どんなに疲れていても信用ならない相手の前で眠る様な男では無いから…少しは期待しても良いのだろうか。
と、その整った唇から不意に小さな呟きが漏れた。
はっきりとは聞き取れずとも、その頬に浮かんだ美しい微笑から鑑みれば、きっと懐かしい相手とでも夢の中で話していたのだろう。…少し、妬けるが。
「…わしは殺生丸様にのみ用があったのだが…いらぬ邪魔者が先に来ていた様だな。」
一行にとって招かれざる客が訪れたのは夜半を過ぎた頃。
「奈落!やっぱり来やがったな!?」
「兄上殿はお休みです、速やかにお帰りなさい。」
気色ばむ二人を奈落は意にも介さず、余裕の笑みだ。
「ほう、”お休み”…か。ならば我が城へ連れ帰ってわしと一つになって頂く絶好の機会…。」
ぶつぶつと呟かれた言葉の語尾をさらうかのように、犬夜叉ががしゃりと鉄砕牙を構えた。
「ふん、俺の兄貴がてめえと一つになんて御免被るぜ。鉄砕牙も何だか騒いでやがる…死んだ親父もてめえが気にくわねえって事だろうよ。」
夜の番を仰せつかったからには貴方にも丁重にお帰り頂きます、と弥勒も涼しい口調で錫丈を持ち直す。
三人が剣呑な空気を醸し出し始めた時、話題の渦中にある殺生丸がその黄金色の瞳をきりりと開けた。
「…うるさい…喧嘩ならば他所でやれ。」
ゆらりと立ち上がった彼はどうやら機嫌を損ねた様で、既にその右腕はしっかりと刀の柄へ掛けられている。
「お…おい…?」
暗に戦って大丈夫なのかと気遣いを見せる異母弟へ、殺生丸はちらりと横目で視線を流すだけだ。
「…言っただろう、己の身は己で守れると。」
低くそう呟く言葉は、純血の妖怪ならではの誇りと威厳に満ちていて。
「勝算があると思ってお訪ねしましたが…どうやらわしの方が不利な様ですな。一つになるのは…またの機会の楽しみに取っておくと致しましょうぞ。」
再び前方に据えられた殺生丸の視線をその身に浴びて、奈落は残念そうに後じさり、何処へとも無くその姿を消したのだった。
木の根元では相変わらず殺生丸の連れの二人が横になっていて、傍でこれだけ騒がれていても全く気付かずに眠り続けるとは案外大物なのかも知れない、と弥勒と犬夜叉は密かに舌を巻いた。
あるいは殺生丸の傍に居る限り安全なのだと強い信頼を寄せているが故なのだろうか。もっとも眠っていると思われている片割れの小妖の方は、争いに巻き込まれぬ様にと必死で目をつむっていただけであったのだが…。
「―――風の匂いが、変わった。」
ふっと呟かれた殺生丸の言葉の意図する所は、妖力が戻る刻が近付いているということ…そして暗に、日常に戻る時間だということを示唆しているのだろう。
…仲間の元へ、戻れと。
「…じゃあな。…またこうなる時も、きっと傍にいるから。」
弥勒が少し離れた隙に、照れを隠し切れずに真赤な顔をしてそんな事を呟く犬夜叉へ殺生丸は僅かに瞳を見開いた。
「…次は何十年も先のことだ、痴れ者が。」
言葉つきは淡々としていたけれど、その口許に浮かんだ僅かな笑みは犬夜叉が初めて見る類のもので。
胸の内にほっと優しい灯りがともった様な心地がした。
◇ 後記 ◇
自分が心の拠り所としているものが衰えてしまう瞬間…己の強さに絶対的な誇りを抱いている兄上だからこそ、感情の揺れもひとしおなのではなかろうかと思いつつ執筆しました。リクエスト下さった葉月みずのと様に捧げます。
2004/07/29 Shisui Gagetsu
||
Index ||