黒雲 -KOKUUN-
『九郎義経様が婚約者を迎えられたらしい』
福原の偵察を終えて京に戻った僕を迎えたのは、町の人々のそんな噂話。一体何の話だろうかと詳しく聞くと、九郎の連れの少女が後白河院の要請に応えて神泉苑で雨乞いの舞を舞い、見事雨をもたらした彼女を後白河が目に留めた折、九郎が『この者は俺の婚約者です』と院を止めたのだという。
龍神の神子を後白河の手の内に籠めてしまうわけには行かない。九郎はそう思って思いつく限り一番効果的な方法で神子を守ったのだろう。それでもきっと…全く心にも無い言葉ではなかったに違いない。
異世界から召喚された少女。随分気が強くて始めの内は九郎と衝突を繰り返していたけれど、傍から見ていれば二人がその中で着実に心を通わして行くのが手に取るように分かったから。
心がざわめきを増して行くのが分かる。いずれこの様な瞬間が来ることは分かっていた筈なのに。己がいつの間にか惹かれていたあの人が、彼にとっての至上の存在を見つける瞬間が。
その瞬間が来たならば、僕はただ彼が必要とする時に彼を補佐する、そういう存在になるのだろう。彼が愛した女性が、きっといつも彼の傍らで彼を支えるのであろうから。
心が、痛い。その痛みを誤魔化す様に町でいくらか情報収集をし、その後に当初の目的通り帰還する。
報告も兼ねて梶原邸に着いたのは夕刻だった。門衛に尋ねてみれば、やはり九郎も他の八葉達も今は中にいるという。
正面の門を潜って皆が居るであろう一番広い南向きの部屋へと向かおうとした時、丁度廊下の向こうから九郎が出て来る所だった。此方の顔を見て、「無事だったか」と駆け寄ってくる九郎に、僅かな微笑みを浮べてみせる。
「無事でしたよ。求めていた情報も手に入りましたし、ね。…九郎は…僕が居ない間に婚約者を迎えたんだとか…?」
からかうだけのつもりだった。ただ、いつもの様に友の気安さでからかうだけの。…それなのに、瞬時に真っ赤になった九郎の顔を見たら浮べた筈の笑顔が醜く引きつりそうになって。
「っ馬鹿、単なる方便だって分かってるだろうがっ」
慌てた様な言葉が耳に痛い。
「顔が真っ赤ですよ、九郎。」
―――福原へなど、行かなければ良かった。…いや、今後のことを考えれば行かざるを得なかったけれど、せめてその神泉苑での儀式の折に己が傍に居たならば、今この様な想いをせずとも済んだろうに。
「弁慶さん、帰って来てたんですね。一人で行っちゃうから心配したんですよ!」
明るい調子で此方を気遣ってくれる声。…九郎と僕の話し声に気付いて迎えに出てくれた神子のものだ。
ああ…何てまっすぐなんだろう、九郎とはまた違う種類の純粋な力。僕ではこの存在には叶わない。
「有難うございます、望美さん。…少し疲れているので、帰って来たばかりなのに済みませんが、皆さんに挨拶だけしたら今日は失礼しますね。」
本当は、こんな風に逃げ出す様にして即刻引き返すつもりではなかったけれど、僕の弱い心は仮面の様な笑みを頬に貼り付けて、逃げを選んだ。
「大丈夫か…?お前、そんなことさっきは何も…。」
確かに先刻の自分は、普段と同じ様に九郎をからかおうとして逆に自らの傷にうめいたのだ。顔を曇らせて案じてくれる様子の九郎には、何とも申し訳無いけれど。
心配なくても大丈夫ですよ、と微笑んで奥の部屋の皆の所へ向かおうとするも、九郎に強く右腕を引かれて、身体の均衡を崩しそうになった。
「…帰る時呼んでくれ、送っていくから。偵察の結果も聞きたい。」
きっとそれは彼の不器用な優しさ。浄化しても未だ怨霊の蔓延る京の町を、疲れた身体で歩かせたくはないという友を思いやる心なのだろう。
困ったように首を傾げて見せて、暗に一人でも大丈夫だと告げたが、真っ直ぐに此方を見つめる九郎の視線が逸らされることは無かった。
久し振りに会った八葉の皆、新たに加わった天の青龍・将臣君、そして景時の妹御の朔殿、彼らとの再会はやはりほっと安心出来る一時だった。作り物でない笑顔を浮べて彼らの遣り取りを暫し聞いていた己の背後にいつの間にか九郎や神子の師でもあるリズヴァーンが来ていたのに気づけなかったのは、それだけ集中力が無くなっている証拠なのだろうか。
「…お前の心に翳りが見える。」
短く、真実のみを射抜く様なリズヴァーンの言葉。隠したかった汚れた心も、彼の前では浮き彫りに見えてしまうのだろう。
「…済みません。」
楽しそうな皆の喧騒が遠く聞こえた。リズ先生に謝ったとて、彼の言う翳りを取ることは出来ないのだろうけれど、何故だかそうせずにはいられずに。
「責めているのではない。…無理をするな。」
思えば、彼にこうして気遣われたのは初めてだったかも知れない。思わず困惑した視線を投げたところで、「もう今日は帰るのだろう」と諭された。
それではこれで、と挨拶する所にいずこかへ行っていた神子と九郎が戻って来て。
「九郎、お前も源氏屋敷に帰るのだろう…?送って行け。」
意外にも、九郎にそんな言葉を掛けたのはリズヴァーンだった。あまり他人に関わることをしない師が自分にそう命じたことに驚いたのだろう、九郎は僅かに目を見開く。
「そのつもりでした、先生。」
はっきりと発せられたその言葉に背を押されて館を出た時は、既に陽が沈んで夜闇が広がっていた。
帰りの道中は怨霊に出会うこともなく、それとなく福原で見聞きしたことなどを話した後は互いの間に沈黙が落ちた。普段なら、九郎と居ると沈黙など気にもならないのに、今宵に限ってこんなに息苦しく感じるのは己の心の穢れからか。
源氏屋敷に着いてしまえば、厩舎に馬を預けて各々の部屋へ。かつて九郎はその方が便利だからと彼自身の居室の傍に僕の部屋を与えてくれたけれど、その御蔭で部屋に入る後ろ背までが見えることがこんなに切ないとは思わなかった。
機械的に食事を済ませ、旅の荷物を片付ける。
もうこれで今日は終いだ、明日までに何とかリズ先生の言う翳りを隠す努力を、この心を整理し納得させる努力をしなければ。
そんな事を思いながら夜具を延べ、其処に身を横たえてぼんやりしていると、襖の向こうに動く影があった。
「九郎…?」
その影の主であろう相手の名を呼び掛ければ、「悪い、寝ていたのか?」と九郎が幾分済まなそうな顔を覗かせた。
「いいえ、横になっていただけですよ。どうか、しましたか…?」
可笑しいでしょう。君への感情をどこかに封印して明日の朝を平静な気持ちで迎えられる様にしようとそう思っていたのに、君がこうして夜半に部屋を訪ねて来ればやはり嬉しいと感じてしまう僕が居るのだから。
入って下さい、と招けば、起き上がろうとする僕をそのままと制して、九郎が褥のすぐ傍に腰を下ろした。
最小限の明かりしか残していない室内は、随分と薄暗い。それでもあまり表情を読まれたくない今はそれが有難かった。
「いや、別に何か用事があったわけじゃないが…悩み事があるなら話してくれ。俺もお前の助けになりたいんだ。」
…優しい、人。軍師として、友人として出会えただけでも、僕は感謝しなくてはいけないのに。
「俺は…無力だな。いつもお前に頼ってばかりで、少しもお前の役に立てていない。」
黙りこんでしまった僕をどう思ったのだろう、そんなことを呟く九郎の指をそっと握る。その指が持つ思いの外の熱さに、身体の芯が震えそうになった。
「九郎…明日が来たなら、今夜のことは忘れると…そう約束してくれますか…?」
そんな言葉が唇から零れ落ちてしまったのは、あまりに優しい君に縋らずにはいられなかったからか。
「え…?あ…ああ。」
戸惑いつつも肯く九郎の手を、そっと近くへと手繰り寄せる。少しも抗わない彼を、僅かに力を籠めてゆるりと己の間近まで引き寄せ、身体を反転させて上から九郎の顔を見つめた。流石に身を強張らせた九郎の言葉を封じるように、理不尽な言葉を呟いてみせる。
「…君が、いけないんですよ。僕は何とかこの胸の内に封じてしまおうと思っていたのに…君と望美さんを見ていると苦しいなどと、誰にも悟らせぬつもりだったのに。」
僕の意図している所を掴んだのかそうでないのか、九郎は見開いていた瞳を更に大きくした。
「お前…あいつが好きなのか?…婚約者云々の話は本当に誤解だ、お前があいつを好きなら…俺に遠慮などしなくていい。」
―――違いますよ。僕は君に嫉妬していたのでは無くて…君の心を掴むであろう望美さんに嫉妬をしていた。
それでもそう言葉で告げられる筈も無くて、あるいは言葉で告げるよりもずっと大胆なのかも知れないけれど、九郎の唇に己のそれを重ねる。僅かに開いていたそれの間から侵入して、深く舌をも絡ませて。
”…分かって下さい、純な君でもこうまですれば察してくれるでしょう…?”
唇は重ねたまま、そんな望みを掛けて薄らと瞳を開けて九郎の瞳を捉えれば、彼は呆気に取られた様に目を見開いてこちらを見つめていた。
「…済みません。初めに言ったでしょう、今夜のことはすべて忘れて下さいと。」
まるで言い訳するかの様にそう呟いて身を起こしかけた時、思いがけず逆に身体を抑えつけられた。
「馬鹿野郎、忘れられるわけないだろう。」
真っ直ぐな瞳に今は上から真剣に見据えられて。やはり怒っているのだろうな、とぼんやり思う。
「…冗談だったなら承知しないが…そんな風にされて何も感じない程に俺は餓鬼じゃない。それに…何故すぐそうやって俺から身を引こうとするんだ、お前は。」
まるで照れているかの様な、九郎の優しい声音に我知らず涙が溢れそうになった。武骨な指の次に湿った温かい感触が目許を拭い、それが九郎の舌なのだと認識するのに随分と時間が掛かる。
ゆるゆると腕を上げてそっと九郎の背に腕を回せば、優しく、でも強い口付けが唇に下りて来て、信じられないような幸せに酔った。
―――君が、好きです、九郎。たとえこの幸せが儚く消えてしまう一瞬のものだとしても、今夜のことを思うだけで僕はきっと耐えていける。
夜半、傍らに眠る九郎を見つめながら弁慶がそっと呟いた言葉が聞こえていたのかどうか、九郎はその親友であり軍師であり恋人ともなった相手の身体を抱きしめる腕を、僅かに強めたのだった。
◇ 後記 ◇
拙宅の遥か3サイド・キリ番1000HITを踏んで下さったユエリ様に捧げます。『弁慶の嫉妬で微エロ』とのお題を頂きました。後半のお題を達成する為に弁慶氏には襲い(?)受けをして頂いた訳ですが…普段の例に漏れず攻めも受けももどかしさMAXな話となりました;;個人的にはリズ先生の登場シーンに思い入れがあったりも致します。
2005/01/20 Shisui Gagetsu
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