Chapter2 ◇ 口移し
「弁慶様、九郎様が…っ。」
兵の切羽詰った声に呼ばれて慌てて足を向けてみれば、戸板の上に倒れている九郎の姿。一瞬敵兵に襲われでもしたのかと肝を冷やすが、それらしき傷痕も見当たらない。
「どうしたのです、九郎は…?」
呼びに来た兵卒に尋ねると、こんな季節だというのに、寒空の下まるで身体を苛めてでもいるかの如くろくに休みもせずに鍛錬を繰り返していたのだという。
おかしなことを。九郎は確かに一本気で鍛錬にも決して手を抜かない男だけれど、普段ならそんな無茶はしない。その九郎をここまで追い詰めるだけの何かがあったということなのか。
恐る恐る伸ばした指が触れた九郎の肌は随分と熱い。高熱を発しているのだ、と一瞬遅れてそう思った。
「僕が看ましょう、中へ運び入れて下さい。」
すぐに火の勢いを強くして部屋を温めるも、これ程の高熱であれば随分と悪寒がしているに違いない。名前を呼びかけてもぴくりとも反応は無く、意識を失ったままの九郎の身体を熱い手拭いで手早く拭いて夜着に着替えさせた。
その合間に、兵士達に動揺が走ってはいけないからとこの事は伏せて置くように命じる。今敵軍に攻められたなら命取りゆえ、夜の見回りの頻度も、歩哨の数も倍に増やした。
機械的に今やらねばならぬ事を頭の中ではじき出して、一通りやってしまうと漸く息を整えて九郎が眠る枕元に座した。
―――大事に至らなければ良いけれど。冬場の病は長引けば死に至ることすらある。…九郎の身を襲った災いがどうかその様なものでは無い様にと誰にともなく祈っていた。
解熱の薬を飲ませなくては。…ほんの僅かなりとも、症状が楽になるから。
意識を失ったままの彼にそれを飲ませるとすれば、外部から強制的に飲ませるしか手は無かった。
必要な薬草とぬるま湯を準備して薬を調合し、そっと九郎の頭を膝の上に持ち上げて起こす。零れた時の為に布巾で顎を支えて、口許にあてがった椀を傾けて唇の間から流し込むようにするが、やはり中々入っては行かない。
「…大分悪いの?」
不意に誰も居なかった筈の後ろから声を掛けられて、思わず椀を取り落としそうになった。
「驚かさないで下さい、ヒノエ。」
呼吸を整える様に一つ大きく息をはいてから、ヒノエの方へと顔を向ける。
「あまり良いとは言えませんね。意識が無いままですから薬も中々飲み込んでくれませんし…正直心配です。」
僅かに翳った弁慶の心を汲み取ったのか、ヒノエがいつもの様に軽口で返してくることは無い。
「…薬。飲ましてやれば、そんな椀からじゃなく、さ。」
暫しの間をおいてヒノエがぽつりと零した言葉が、弁慶の心の中に波紋を投げ掛けた。…考えなかった訳では無い、意識の無い人間に薬を服用させるのに最も適した方法を。市井の患者に施療する時であれば、その患者の身寄りの者に頼んで口移しで薬を与えるようにと指示するところだ。
ただ…それを九郎に自分がするとなると…幾ばくかの躊躇いを覚える。
自分が嫌なわけでは無い、しかし後日九郎が目覚めた時にそれを知ったらどう思うかと…それを考えるとどうしようもなく不安になる。弁慶の知る限りでは九郎に情人は居ない様だったが、もし居るとすればやはりその女性に看病されたかったと思うのではなかろうか。
それに治療とは云え意識の無い九郎にそうして触れることは、今の自分が秘めている一方通行な恋心を再認識することにも似て。
「あんたの気持ちも分からなくもないけど…でも薬飲まさないと危ないんだろ?そいつに今薬を飲ましてやれるのって、あんたぐらいしかいないと思うけど…?」
まるで戸惑っている背を押してくれるかの様なヒノエの言葉に、少し力付けられた様な気がした。
「ああそうだ、熊野からあんたが注文してた薬草届いてたから。…じゃあね。」
そのまま音も無く姿を消してしまった甥に、弁慶はそっと礼の言葉を呟く。
「…有難うございます、ヒノエ。」
それに返事は返って来なかったけれど、甥はどこかでそれを聞いていただろうという確信があった。
未だほど良い温もりが残る薬湯を、そっと自分の口に含む。調合には何も問題が無かった筈なのにほろ苦く感じるのはきっと己の心の持ち様のせいだろう。それでもヒノエの御蔭で迷いは消えていた。
唇を合わせて少量ずつ丁寧に薬湯を流しこんで行く。ややあってからコクリとそれを嚥下する音を聞いて、ほっと胸を撫で下ろした。
―――どうかゆっくり休んで下さい。…そして早く良くなって欲しい。
九郎の額に乗せた冷水を含ませた手拭いを暫くおきに代えながら、その晩弁慶は一睡もせずに親友であり主でもある相手を見守っていた。
夜半、九郎が何かに魘されるかのようにくぐもった呻きを発して。意識が戻っただろうか、とはっとして傍へと近寄った所で、強い力を持つ指に手を掴まれる。
「寒い…傍に…居てくれ。」
小さな音で途切れ途切れに呟かれたのは、そんな一言。何年も前、弁慶が比叡山を出て来た頃に出会ってから、初めて耳にした九郎の弱音らしき言葉だった。
寒いのは、恐らくは熱の所為。強い力で縋り付いて来たのは、それだけ彼の身体の具合が悪いということ。…何も相手が僕だから縋ってくれた訳ではない。
そう分かっていても、心臓の拍動の音が五月蝿くなる。
…ねえ、九郎。
今だけ…今だけ、君が僕に縋ってくれた様に、僕も君に縋っても良いですか。寒がっている君にこの身の熱を分け与えるためと自分を納得させて、君の傍で休んでも良いですか。
夜の冷気からすら庇う様に、腕で九郎の肩を包み込んで。闇の中で誰も見てはいないからと気が緩んだのだろうか、何故だか閉じた瞳から涙が溢れた。
◇ 後記 ◇
お題連載第二編『口移し』…これはもう、そのまんまを書いてしまいました。いつからこの連載の弁慶の方向性が片想いになったのかしら…きっと気がついたらなっていたんだろうな。…何しろ牙月は擦れ違いが大好きな著者でして;これまで弁慶視点でお送りして来ましたが、次の第三話は九郎視点でお届けしようと思います。
2005/01/11 Shisui Gagetsu
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