Chapter1 ◇ 「び」が付く薬
「おい、弁慶、お前の甥は一体どうなってるんだ。」
丁度京の人々の所へ置いて行く薬の調合を行っていた弁慶の許へ、九郎が駆け込んで来たのは昼過ぎのこと。それ自体は然程珍しいことでもなく、弁慶は手に持っていた薬草の包みをそっと卓上に置いて九郎の方を振り返った。
「ヒノエがどうかしましたか、九郎。」
穏やかに問い返してやれば、九郎の顔は幾分朱に染まっている様だ。
「俺が今からお前の所へ行くと言ったら、あいつがついでにお前から薬を受け取って来てくれと言うんだ。…その…「び」が付く薬と言えば分かるから、と。」
最後の下りで顔を更に真赤にした九郎を眺めて、弁慶は思わずふっと口許に笑みを浮かべた。甥にあたるヒノエが何を意図して九郎にそんな回りくどい伝え方をしたのか、手に取る様に分かる。
「それは…申し訳有りませんでしたね、九郎。僕の甥が君に失礼な使いを頼んだ様で。」
取り敢えずそう返事を返すが、九郎はそういうことでは無いと言いたげに室内を歩き回っている。
―――何だか、少し分かる様な気がしますね、九郎をからかったヒノエの気持ちが。…九郎はあまりにも真っ直ぐで、そういったものとは無縁に思えるから。
ふっと悪戯心が芽生えて、弁慶は何食わぬ顔をして薬品の棚に手を伸ばした。そしてその中から何本かの薬草を手に取って摩り下ろしていく。
「おい。」
痺れを切らしたのか、卓子にどん、と手を付いた九郎の顔が目の前に現れる。思いがけず至近距離から覗き込まれて、弁慶はくすりと笑いつつ手を止める。
「どうしました。…ああ、君も僕に用事があったんでしたね、お先にお伺いしますよ?」
わざと話をはぐらかせば、九郎は途端に不機嫌そうに此方を睨んだ。
「違う。…いや、確かにお前に用事はあったが…そんなこと今はいい。お前、その…媚薬を作るのか?」
それだけ口に出すと、九郎は照れ臭そうに視線を逸らしてしまう。
「そうですね、作れることは作れますが。…要は身体の代謝を短時間非常に活発にする成分を入れれば良いんですよ。」
わざと何でも無いことの様に返事をして九郎の反応を伺った。…きっと後で興味津々なヒノエがこの様子を聞きに来るに違いない、と密かに思う。
本当はヒノエの言う『薬』とは常備薬の傷薬のことなのだが、よほど世間知らずで無い限り、「び」が付く薬と言われたら媚薬を連想するのは当然の事かも知れない。
「お前、そんな物作って…その、使うのか?」
先程照れていた時とは別の不機嫌さの滲んだ九郎の声に思考から引き戻される。 おや、と思った。何故九郎はこんなに不機嫌になるのだろう。確かに九郎の性格では媚薬といった類の代物は好まないだろうが、それだけでは無いような。
「…使うとしたら、どうするんです?」
それは、少しの好奇心。あるいはいつの頃からか己の心に芽生えていた想いが唆した言の葉。…答えに依っては、九郎の心がほんの少し垣間見えるかも知れない。
「別に、どうもしない。ただ俺は…薬を使って人の精神を左右する様なことは好きじゃない。…それだけだ。」
一瞬ぐっと黙り込んだ九郎が、低い声で放った言葉は真実だろうが、聞きたい答えでは無かった気がした。そのまま踵を返して、元々此処へ訪ねて来たであろう用件も言わずに戸口を出て行こうとする九郎を慌てて呼び止める。
「…使いませんよ。…少なくとも、薬を使って女性を襲う様な…貴方が最も軽蔑する様な真似はしたことも、する予定もありません。…それはヒノエもね。」
その声にぱっと振り返った九郎の顔は、一見して分かる程に明るい表情になっていた。
…やっぱり。何て率直な人なんだろう。…そんな所が、私は好きなのだけれど…でも媚薬でこれ程までに反応するという事は、僕の想いが叶う日など来ないかな。九郎には、才色兼備な姫君を妻に貰って幸せな家庭を築く、そんな一生が似合っているから。
唇から漏れそうになった溜め息を慌てて隠して、一旦止めた手を動かして薬草を擂る。ごりごりという草の擂れる音だけが響く中、いつの間にか戻って来た九郎が卓子の前へと胡座していた。
「…じょう”び”薬、ですよ、九郎。」
ふっと広がった沈黙が重くて、少しからかう様に種明かしをする。がば、と勢い良く上げられた九郎の頬は先刻の比ではない程の朱。
「お前なっ…分かっていて俺をからかって遊んでいただろうっ。」
遊んでは…いませんけれどね。楽しんでは、いましたね。
けれど…常に光の中を行く様な…真っ直ぐな貴方に、決して手に入らない貴方に、この位の意趣返しはさせてくれませんか。
貴方が先程の様にふっと真剣にものを言うと、我知らず心をざわめかせてしまう私が居るのですから。そう、貴方が少しでも僕に特別な感情を抱いてくれてはいないだろうかと。
「もういい。相変わらずだな、お前は…じゃあ、ヒノエの伝言は伝えたから俺は帰る。」
幾分かふくれ面になった九郎が戻って行くのを、弁慶はただ黙って見送った。
ヒノエが普段通り身軽な出で立ちで弁慶の許へとやって来たのはそれから一刻もしない内。薬を取りに来たなどというのは多分方便で、彼の発言を巡って九郎と義経がした遣り取りを聞き出しては明らかに楽しんでいる。
「それで…?”叔父上様”、可愛い甥の御蔭で源氏の大将と少しはいい展開になったりしたのかい?」
そうなったなどとは露ほども思っていないくせに喰えない笑顔でそうからかうヒノエに苦笑を返すしか出来ない。そもそもこの甥はどこまで僕の気持ちに気が付いているのだろうとふと思う。
「いい展開どころか、九郎は怒って飛び出して行ってしまいましたよ。…どうしてくれるんですか。」
拗ねた様な表情を作って横目で睨むと、ヒノエからは軽い口笛。
「代わりに俺が慰めてあげようか?」
ご丁寧にこちらの肩までぐっと掴み込んでそう提案するヒノエだったが、そんな事は日常茶飯事とばかりに弁慶の方はその手から逃れた。
「笑えない冗談ですね、ヒノエ。…それに僕は誰かれ構わずお相手はしないんですよ。」
そう言って立ち上がりしなに、これでもう用は済んだとばかりにヒノエの手に薬を押し付ける。互いの視界から逃れた所で、双方が共に苦い溜め息を吐いていた。
◇ 後記 ◇
あまりいい事では無いのですけれど、私はキャラを掴むのに結構時間が掛かるので、まずはウォーミングアップに軽く読めるものを書いていこう、という訳で…お題に挑戦。『び』の付く薬、媚薬以外を考えるのに妙に苦労しました(苦笑)思いついたのは点鼻薬と常備薬のみってどうなの、私。余程媚薬一色に頭の中が占められているのか。この作品は、次のお題『口移し』へと続きます。お付き合い頂ければ幸いです。
2005/01/11 Shisui Gagetsu
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