徒花 -ADABANA- [01]
黒い長衣に身を包み、深い闇夜に融け込むかの如くひっそりと源氏御殿を抜け出す。弁慶にとってそんな事はもう、珍しくも無い。
誰もその秘密に気付かず、勿論気付かせず。例え危うい均衡であったとしても、己の行為が自軍の利を導き出すのなら、それで良いと思っていた。
「…いつまで、こんな事を続けるつもりだ。」
だから、丁度崩れかけた塀の辺りをひらりと飛び越えようとする寸前で、聞き知った声に呼び止められた時は本当に驚いて。
「…九郎。驚きましたよ、まだ起きていたのですか。」
それでもすぐに顔色を取り繕う。無二の親友とも呼べる相手をこうして誤魔化すのだから、己は何とも罪深い人間なのだろう、と自嘲し掛けて、呼び止められた際の九郎の言葉の内容にはっとした。
『いつまで、こんな事を』―――九郎は気付いているとでも言うのだろうか。定期的に邸を抜け出し、僕が何処で何をしているのかを。
―――まさか。
その年齢にしては初心過ぎる程に純粋な九郎のこと、この様な汚い政治の駆け引きに気付く筈も無い。
そう思い込もうとして、有り得ないと断言出来ぬ己に気付く。妙な所で鋭いのだ、九郎は…それも此方が出来れば隠しておきたいと願っている内容に関して。
「こんな事、とは…僕が夜中に邸を抜け出すのが気に入りませんか?大丈夫ですよ、夜逃げをしたりはしませんし、君に害為す様なこともしません。…僕は軍師ですからね、こうしてこっそり情報を集めることも必要なんですよ。まあ勿論、多少の娯楽が無いと言っては嘘になりますが。」
ともすれば説明口調の言い訳になりそうな台詞を、何とか微笑で包みつつ口に乗せる。けれど、九郎は真っ直ぐに弁慶を見据えたまま動かない。
「違う。…分かっているだろう。夜遊びに行くのならいいんだ、多少羽目を外したぐらいで口出しする気は無い。…だがお前はっ!」
感情が昂ぶって其処から先を言葉に出来ずに拳を握り締める九郎に、弁慶は小さく溜め息をついた。
…困りましたね、悪い方の予想が当たってしまいましたか。知ってしまったのだ、九郎は…恐らくは全てのからくりを。
―――だとすれば、どうすれば良いと?得意の弁舌で今この瞬間だけ彼を丸め込む事は簡単。されど、そう遠くない未来に綻びが出来ると知っていてそうするほど馬鹿でもない。
「…それでも僕が”夜遊び”に行ったのだ、と思っていればいいんですよ、君は。僕はあの方と政治的な駆け引きを楽しんでいるだけ…悪い様にはしないと約束します。…ああ、何か御要望はありますか?もっと良い軍馬を、とか、この位軍資金が欲しい、だとか…あるいはこの人材を陣営に引き抜きたい、とか。…出来うる限りお役に立ちますよ。」
全てを認めた上で、己の存在を手駒として九郎に使わせる。
弁慶の選んだ選択肢はそれであった。
「馬鹿野郎、俺はお前にそんな事を望んでる訳じゃない。お前にそんな事をさせなくても、源氏が生きる道はある筈なんだ。お前だって、そんな…遊び女の様に自分の身体を売る様なこと、したい訳じゃないんだろうっ!」
言い辛そうに暫し口篭った後、一息に発せられた九郎の叫びは、悲痛に夜気を引き裂いて弁慶の耳に届く。
けれど彼の顔に浮かんだのは、全ての感情を押し隠した様な冷たく美しい微笑。
「…さあ…案外それを愉しんでいるのかも知れませんよ。…ああ、もう行かないと”契約”の時刻に遅れてしまう。問い詰めたい事があるのなら、どうぞ僕が戻った後に。」
丁寧でありながら突き放す様な語調は、”親友”としての弁慶には無かったもの。自分の知らない、なにか妖しく美しい生き物が醸し出す空気に勝つことは出来ず、九郎は強く唇を噛んで押し黙る。
「…ああ、それと。少しの亀裂が致命傷になる位、今の源氏の立場が脆いものだという事を忘れずに。君の言葉は正論ですが…綺麗事のみで渡って行ける程世間は甘くない。強固な地固めの為に幾ら策を講じたとて、十分過ぎるという事は無いでしょう。」
付け加える様にそう言った弁慶は、九郎が良く見知った優しい光を一瞬だけ瞳に浮べて九郎を見つめ、次いでひらりと地を蹴って塀を越えた。
「…明け方には戻ります。」
去り際に残された一言に、九郎はその場から一歩も動けず、ただ宙を見つめて夜を明かすばかり。
明け方にやはりこの塀を飛び越えて戻って来るであろう年上の親友を出迎え、今度こそ説得しなくてはと思いながら、庭の敷石に腰を下ろす。
気掛かりが大き過ぎて、睡魔も今宵は訪れない。
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